「船乗りと芸妓たちの出会いと別れ
見送りましょうか角の茶屋まで 風がなければあなたの部屋まで」
福井県三国町の三國湊は古来より水運による物流の拠点で、江戸時代の中期、北前船による交易が始まると、日本海でも屈指の港として繁栄を極め、船乗り、商人、武士、文人墨客など、様々な人が全国各地から訪れました。北前船を所有する廻船問屋、様々な物品を扱う商店などが軒をつらねました。 命がけで航海に挑んだ船乗りたちに、つかの間の安らぎと癒しを与えた花街もそのひとつ。江戸時代、三國湊には約40軒の遊女屋や芸者小屋が建ち並び「遊女町 三國」として全国的にもその名が知れ渡りました。
北前船の航海は「風まかせ 帆まかせ」。荷役がすんでも風がなければ出航できず、順風を待つこともしばしば。そんな「風待ち」のおかげで、料亭や茶屋では、船乗りと芸妓たちの一時の出会いと別れが繰り返され、船が出港する間際まで泣いて別れたくないと港を離れない遊女の姿もありました。
江戸吉原では最も品格の高い遊女は「花魁」ですが、ここ三國では「小女郎」と呼ばれ、粋な旦那衆たちの憧れは、教養、品格も高い遊女、三國の小女郎でした。なかでも評判だったのが、「泊瀬川」(本名、ぎん)という名の遊女。北前船交易が盛んだった頃、三國湊町には全国から様々な文化が入ってきましたが、俳諧もその一つ。泊瀬川は、麗しい容姿と気品に加え、茶の湯、琴、香、花、書をたしなみ、とりわけ俳諧に秀でており、「哥川(かせん)」の俳号で活躍。北陸女流俳人として多くの文化人とも交流を持ち、その抜きんでた評判から三國湊を北国一の色里と言わしめたほどの才色兼備でした。
そんな三国町にあるのが「料理茶屋・魚志楼」。この界隈は「三国出村」と呼ばれた花街で、もともとは芸妓の置屋だったこちらの建物。北前船の衰退とともに花街もさびれ、長らくその扉を閉じていましたが、現在は地元三国の食材を楽しめる料理茶屋として再興。築100余年、国の有形文化財にも指定されている町屋風の建物で、京都の料亭で修業をした若き料理人が腕をふるう、甘えびや越前ガニなど北海の海の幸を堪能できます。
周辺には、三味線や小唄を聞きながらお茶を楽しめるお店もあり、タイムスリップしたかのような往時の雰囲気を楽しむことができます。