「忘れしゃんすな山中道を」
―恋しいあなた。山中でいつまでもあなたを待っている私のことを忘れないでね―
一攫千金を夢みて北前船に乗った若者たち。通常、11~13人ほどが乗り込み、仕事を分担しました。船乗りのトップが船頭とすると、一番の下っ端は、「炊(かしき)」と呼ばれる調理担当。早ければ12歳、たいていは14、15歳で雇われました。
朝は誰よりも早く起きて飯を炊き、寄港しても上陸は許されず船の留守番をしました。数年間、「親仁(おやじ)」と呼ばれる水夫長に徹底的に教育され、後輩の炊が雇われると「炊あがり」と呼ばれました。次なるステップは「若衆」です。別名「追い回し」と言われるほどこき使われる忙しさでしたが、寄港すれば上陸でき、女郎部屋にも行くことができました。佐渡小木町に残る古文書には、飯盛女と呼ばれた遊女相手に遊んだ水主が、フンドシをかたに置いて帰った証文も残っています。フンドシがかたになるほど、お金もない、若い水主だったのでしょう。
風で走った当時の船は、シラハエ(白南風)と呼ばれる、梅雨明けに吹く南風にうまく乗ることができれば、波に乗ってすべるように走ります。最終目的地である蝦夷まで、1か月ほどで到着しました。風がなければ、船はどうにも進みません。時に2か月以上、かかることもありました。このような時は焦らず帆を港におろし、航海にふさわしい風と波を待ちました。能登の福浦や越後の直江津はそんな帆船が身を寄せる風待港として栄えました。
精悍でたくましい海の男たちは港の女性からすると憧れの的です。風待ちをしている間、いくつもの恋が芽生えては消えてゆきました。来年もまた同じ港に立ち寄る可能性は少なかったため、船乗りに恋した女たちは、一日でも長く彼らをつなぎとめようと、あの手この手で願掛けをしました。
山中温泉では、「ゆかたべ(浴衣娘)」さんと船乗りたちの恋のエピソードが残されています。江戸時代、湯座屋(共同浴場)には年のころ、14歳から15歳の女中の卵である「ゆかたべ」と呼ばれる少女たちが働いていました。ちなみに「べ」とは、石川県の方言で少女の意味です。彼女たちは、訪れた客を浴場まで案内し、客が湯から上がるのを、浴衣を持って待つのが仕事でした。ゆかたべは16歳になると女中になり、本格的な仕事を学び始めます。毎年、冬になると、加賀の橋立や塩屋に住む北前船の船頭衆は、疲れた身体を癒しに山中温泉に湯治に訪れました。
彼らが出稼ぎ中に覚えた北海道の江差追分や松前追分を、湯の中で唄うのを聞いたゆかたべが、山中訛りで真似たのが山中節の始まりとされています。山中節の一節に、こんな唄が残っています。
「ゆかた肩にかけ 戸板にもたれ 足で呂の字を書くわいな」
呂とは接吻を意味する江戸時代の隠語です。雪の深い冬の夜、思いを寄せる船乗りが湯から上がるのを、娘たちは寒さをこらえて待っていたのでしょう。
若くして親元を離れ、過酷な船乗りに出た若者と、同じように温泉郷の湯座屋で奉公する娘。浴衣を受け渡す一瞬に、若い二人の間に恋が芽生えたのも必然かもしれません。浴衣が取り持った恋の縁。またいつ訪れるとも分からない船乗りに、ゆかたべはこんな唄を残しています。
「忘れしゃんすな 山中道を」。
恋しいあなた。山中でいつまでもあなたを待っている私のことを忘れないでね。