「田辺さん」「親父」
声をかけてきたふたりに手を振ると、幸成はベンチにどかっと腰を下ろした。
「親父、どうして?」
「おまえのすることなんて、簡単に察しがつくんだよ。子どもの頃からずっと、そう。昨日、おまえに土崎の話をした時から、今日、おまえがこの日和山で風見さんと会って、休暇のことを断るところまで、ばっちり予想できたよ」
「あの、田辺さん、それはさすがに適当に言ってますよね……」
澪にたしなめられ、幸成は「うーん」と息子そっくりの唸り方をした。
「実際のところはね、風見さん。昨日のこいつの様子が気になって、家まで行ってみたんだ。そしたら、入れ違いで出ていったって言われてね。困ってたんだけど、近くで見つけたから、後をつけて……まぁ、その後はわかるよね?」
「はぁ」と澪は溜息をついた。「親子でずいぶん似てるんですね。人の後をつけるのが趣味って」
「趣味じゃないよ」と紀生が言えば、「あぁ趣味じゃあない」と、幸成がうなずいた。
「まぁ、それはともかく、だ」幸成が紀生のことを睨みつけた。「おまえ、課長だかなんだか知らないが、パラハラだぞ」
「パワハラ、ね」と、紀生が渋い顔で言い返した。
「そのパワハラだぞ。役所のことはよくわからんが、休暇の申請に私情を挟むなよ」
「だから……親父も風見さんも落ち着いて聞いてくれよ。休暇じゃなくて、仕事で行ってと、そう言ってるの」
「え?」澪は大きな声を上げた。
「風見さん、君の今の仕事はなに?」
「……観光振興課の業務として、北前船についての知見を深めることです」
背筋を伸ばし、澪はそう答えた。
「酒田でできる取材はもう、だいたい終わったわけだよね? 親父に聞いたよ」
「……はい」
「だったら、次は酒田以外の十一……十か、自治体を回って、取材をしてきて。北前船のことをもっと勉強してきて。業務命令ね、これ。北浦さんは橋立、河野に行った可能性が高いんだっけ? まぁ、だからってわけじゃないけど……その近くにある敦賀から行って。あっちには話をつけておくから」
「あ、あ……ありがとうございます」
「ただ、これはあくまでも、北前船の取材がメインだからね。北浦さんのことはさ、そのついでって言い方もあれかもしれないけど、可能な範囲っていうか、その……」
「風見さん」
紀生が言い淀んでいると、幸成が口を挟んできた。
「こいつね、これでも君のことを気遣ってるんだと思うよ。北浦さんとは距離をとっておいた方がいいって。まぁ、それは僕もそう思うけど」
「……はい。そのご心配もよくわかります。──課長、ありがとうございます」
「もういいよ、そういうのは。ぜんぶ、北前船振興のためだから、いいね?」
「はい」
「よしっ」と、幸成が腰を上げた。「また僕の出番てわけか」
「親父、まさか風見さんについてくつもりじゃ?」
「そうだよ。短時間で成果を出すには、優秀な案内役が必要だから。心配するな、経費は自腹だ。俺の奢り。役所なんかにせびらないよ」
「いや、そういう問題じゃなくてさ」
「北浦さんを除けば、この酒田じゃ僕が北前船にいちばん詳しいんだよ」
「そんなことも知ってるよ、でも」
「あの……」
小さく手を挙げ、澪はふたりの会話におずおずと割り込んだ。
「田辺さん……お父さんの方の」
「確かに面倒だよね、今の局面だと。これからは幸成さんて呼んで」
にっこり微笑まれ、澪は戸惑ったが、
「わかりました、それじゃ幸成さんてことで……。私からもお願いします、幸成さん。北前船のこと教えてください」
立ち上がり、深々と頭を下げた。
「よしっ、じゃあそれで決まりってことで。いいな、紀生。当人同士がOKって言ったんだ。第三者が文句言う筋合いじゃないからな、もう」
「……わかったよ、それじゃあ風見さんを助けてあげて。それからわかっているとは思うけど、これは役所の方には内緒でね。部外者の同行とか、いろいろと面倒だから。あぁちょっと聞いてる?」
「聞いてるよー」
紀生の呼びかけを背中で聞き流しながら、幸成は展望台の端に大股で近づいていった。
「風見さん、ちょっと来てごらん」
「はい」
澪も幸成と肩を並べ、海を眺めた。
「北浦さんと初めてここに来た時。正確に言うと、彼が記憶をとり戻して、その後、ふたりで初めてここに来た時」
「……」
「彼はずっと海を見ていた。だから僕も彼と並んで海を見た。本当に嬉しそうな、なんだろうな、昔馴染みの友達と再会した時みたいな、そんな顔でね。僕、あんなふうに海を見る人間は知らない。でも、思ったのね。昔のここの港には、あんなふうに海を見ていた男たちがたくさんいたのかもしれないって」
「……はい」
「今にして思えば、僕が北浦さんの言うことを信じたのは、あの時だったのかもしれない」
「……」
黙ってうなずいた澪の足元に、ぽつり、と二、三滴、なにかが落ちた。
──涙、だった。
ここで海を見ていた時の北浦の気持ちはわからない。でも、少なくとも、ただ、絶望はしていなかった。
──絶望はしていなかった。
今はそれがわかっただけで十分だった。
「私、先に戻りますね。旅の支度をしないと」
──涙を拭いて、澪は歩き出した。田辺親子と午後の日差しにキラキラと輝く海を後にして。
酒田から敦賀までは遠い。
空路で行こうにもかなりの遠回りが必要で、澪たちは結局、「いなほ」「しらゆき」「はくたか」「しらさぎ」と、在来線特急を乗り継いで行くことにした。
酒田を早朝に発ち、乗り継ぎも比較的スムーズにいったが、それでも敦賀駅に着いた時は、既に午後三時を回っていた。
「今からでも大丈夫。まずは港から見に行こうか」
駅から港までは近かったが、澪たちはこの後の南越前町、加賀への移動にも備えて、まずはレンタカーを借りることにした。
車での移動となると、港までは駅前からほんの数分もかからない。
澪は敦賀赤レンガ倉庫近くの駐車場に車を置いた。
敦賀赤レンガ倉庫
「直接、北前船とは関係ないけど、この『敦賀赤レンガ倉庫』は敦賀が、敦賀港が昔から栄えていた証拠のひとつなんだ」
幸成の言葉を聞きながら、澪は二棟の薄茶色の倉庫を見上げた。古くはあるが清潔感のある建物だった。
「明治から昭和初期にかけて、敦賀はロシア、ヨーロッパと結ばれた貿易都市として発展してね。この倉庫もそうした需要に応える形で建てられて、そもそもは石油貯蔵用だったんだけどね、第二次大戦に入ると軍に徴用されたりもしたんだ」
「ここも今は観光施設なんですか?」
澪が眺めている間だけでも、多くの家族連れやデート中らしいカップルが中へ吸い込まれていった。
「そう。少し前までは昆布の貯蔵庫として使われていたんだが、今は観光用に改装されてる。中には展示施設やレストランなんかがあってね。でも、ただの観光施設じゃなくて、国の登録有形文化財にも指定されてるんだ。まぁ、今回の取材とは直接関係ないから、まずは港に行ってみよう」
──敦賀港は広く、ふたりは車で回ることにした。
敦賀港
「酒田の港よりも立派ですね……」
右手に海を望みながら、澪は緩くアクセルを踏んでいた。
「うん。その分、酒田の港以上に北前船の時代の痕跡は残ってない。港近くの町割り……町の区分なんかは豊臣の時代に整備されたものが残ってるけど、その頃の職業別の町の区分ももうないし。それでね、第二次大戦でかなりの空襲を受けてそこから再起したでしょ。それで今に至るまでずっと開発が続いてるからね。北前船の遺産に限らないけど、現在繁栄しているところほど、どうしても昔のものは残りにくくなる」
港には大きなフェリーターミナルがあり、そして港の機能のメインであろう、コンテナの積み卸しも活発に行われていた。地図で確認すると港の東は公園等が整備されていて、観光地として賑わっているようだ。
「敦賀はそもそも地形に恵まれた良港で。だから自然と昔……奈良時代から海外との交流の拠点になっていた。──渤海ってわかる?」
「唐の東にあった国……ですよね? 今の中国の一部」
澪は朧気な記憶を頼りに答えた。
「そう。でも渤海国は広かったからね。今でいえばロシアや朝鮮半島の一部まで占めていた。敦賀港はその渤海からの使者も受け入れてたんだ」
その後……戦国時代に至っても、朝倉氏、信長、秀吉といった歴代の有力者に保護され、天下統一が果たされた後は海運そのものの隆盛もあり、順調に発展を遂げた。
江戸時代になると、東日本からの米の受け入れ先として栄えたが……。
「ところが江戸中期。あることが原因で、敦賀港はピンチになる」
「なんですか?」
「敦賀港に米が入ってこなくなったんだ」
「どうして……あぁ、西廻り航路ですね」
「そう」幸成は笑って答えた。
「西廻り航路が確立されて酒田なんかは大いに栄えたけど、逆に苦境に陥った町もあったんだ。米の陸揚げのためにここに来る船が減ったからね。ただその代わりに、蝦夷から鯡粕をはじめ、交易品がたくさん入ってくるようになった。それでまたここは賑わいをとり戻すんだが、その後も山あり谷ありでね。明治の早い時期に鉄道が通って栄える。だけど、それは一時的なもので、鉄道が本格的に稼働を始めると、海運は大きな打撃を受ける。国内の海運は難しくなったが、明治後期にはロシアとの定期航路の開通なんかで、国内でも指折りの貿易港として生まれ変わる。国際郵便の扱いが集中したり、この敦賀港は海外、特にロシアに向けて玄関口になるんだ。今からざっと百年も前のことだ」
「百年前……ロシア……想像もできないです」
「ロシア以外にも、海外との縁はいろいろ深いところなんだ。『命のビザ』の話は知ってるでしょ?」
「杉原千畝ですよね?」
「そう。リトアニア領事代理だった杉原千畝。彼がユダヤ人難民を受け入れた。難民たちはシベリア鉄道、ウラジオストック経由で敦賀に来た」
「あぁ。ロシアとのルートが確立してたからですね」
「そう。敦賀港は難民をなんども受け入れてきた。杉原千畝の功績やそれ以前のポーランド人の受け入れの歴史資料を展示した施設が、フェリーターミナルの方にある。『人道の港 敦賀ムゼウム』って名前でね」
「ムゼウム? ミュージアムのことですね」
澪の返答にうなずくと、幸成は話を続けた。
「難民のことだけでなく、この港は戦争の影響を強く受けた。大きな港だから空襲の標的になった。それだけじゃなくて、大量に撒かれた機雷が残って、戦後何年も港として使うことができなかったんだ。この港はその時、いちど死んだんだ」
「……」
「そこからここまで復活したんだから、たいしたもんだよ。いや、戦後の機能していなかった時なんか、この港の長い歴史の中では、ほんの一瞬のことだったかもしれないけどね」
港を西の方まで回った澪たちは、港の港側にある川崎町に戻ることになった。そこに北前船の遺産があるという。
カーナビに従って港から少し離れた道を進んでいた澪だったが、突然小さく声を上げて車を端に寄せた。
「ごめんなさい。あの、今、カーナビの画面を見ててちょっと気になって」
そう言って、観光マップを開く。
「……やっぱり。ここもそうなんだ」
地図の上に指を滑らせる。港と平行に並ぶようにして、いくつもの寺社の名前があった。
「ここも酒田や土崎と同じなんですね。港に沿ってお寺や神社がたくさんあります。別宮神社、神明神社、永建寺、梅室院、秋葉神社、真願寺、観音寺、本勝寺、本妙寺、気比神宮、了福寺、真禅寺、あぁまだ他にもありますね。やっぱり、港と寺社は切り離せないんですね」
目をきらきら輝かせた澪を見て、幸成は頬を緩ませた。
「面白いでしょ、新しい発見は。勉強は楽しいでしょ。勉強してなにかを見つけると、世界が変わって見えるでしょ」
「はい」
澪は力強く答えた。
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