「初めまして。酒田市役所の商工観光部観光振興課の風見と申します」
ふたりは名刺を交換した。
澪が受けとった名刺には「酒田市立資料館 学芸員」という肩書きと、「北浦誠一」という名前が記されていた。
「風見……澪さんですね。北浦と申します。案内は不慣れなのですが、よろしくお願いします」
頭を下げた北浦に、澪も慌てて「いえ、こちらこそ」とお辞儀をした。
「では、早速始めましょうか」
挨拶もそこそこ、北浦は澪を二階の展示室に案内した。
「……?」
二階に上がってすぐ右手に、なにか……腐った大きな木の枝のようなものが置かれていた。
「気になりますか、それ?」
澪の視線を察した北浦が声をかけてきた。
「それは、碇、です。北前船の……あぁ、船を港に停泊させる時に使うものです」
「あ、はい。その碇、ですね。でも、結構大きいんですね」
言われてみれば、確かに碇の形をしている。
「はい。でも、千石船という大きなクラスのものでは、これを四つ使って碇泊します」
「四つも」
千石船というものがどんなものかわからないが、この大きさの碇を四つ使うというからには、相当大型のものなのだろう。
「でも、かなり腐ってボロボロですよね……」
碇というからには鉄製なのだろうが、表面は崩れ、腐った木に見えるほどの痛みようだった。
「……長いこと海の中にあったものですからね」
直接触れることはしなかったものの、北浦は愛おしそうに、その腐食した碇に手を添えた。
「それじゃあ、早速、北前船のお話をしましょうか。ちなみにご存じかと思いますが、この資料館は酒田の歴史を広く扱っているので、北前船のみの展示というわけではありません。では、まずこちらへ」
北浦に右手のスペースに案内された。
「あ、北前船」
澪は思わず呟いた。
そこには北前船の木製模型が置かれていた。模型とはいっても、澪が両手を広げたほどもある、かなり大きなものだ。大きな白い帆に全体に湾曲した船体、荷物を運ぶための船だからだろうか、太く逞しい印象がある。
「そうです、これが北前船です。──便宜上、そう呼んでいるものですが」
「え? 便宜上?」
北浦の遠回しな言い方に、澪は首を傾げた。
「あぁ、すいません。いちど忘れていただいて結構です。ちなみに北前船の模型は全国各地にかなりの数があります。現代になって教材や記念のために製作されたものだけではなく、北前船が活躍していた時代、船を建造した際、注文した船主に贈られた船模型というものもあります」
「は、はい」
物静かな風貌に似合わず、北前船のこととなると、北浦は饒舌だった。
「そういえば、市役所の近く、中町に柳小路屋台村というところがありますよね?」
「え?」突然の質問に澪は戸惑ったが、「あ、はい。『北前横丁』ですね。清水屋の近くの」
「そうです、『北前横丁』。あそこにもうすぐ、これよりも大きな模型が飾られる予定です。本間家が所有していた『日吉丸』という船の模型です。それに、この酒田で北前船の模型といえば、あれを忘れるわけにはいきませんね。日和山公園の池の、あれ、です」
「はい、それは知っています」
澪は街の西にある広い公園のことを思い出した。最近は訪れる機会もめっきり減ってしまったが、あそこの池には北前船が浮かんでいた。ただ子どもの頃から「池の船」としか認識していなかったが。
「すいません、先走ってしまいました。北前船のことをお話する前に、その前提から説明しないといけませんでした」
北前船の模型の前に立ったまま、北浦は話を始めるようだ。澪は鞄からノートとボールペンをとり出して、メモをする準備をした。
「そもそもは、水運、です」
北浦はあらためて口を開いた。
「水運とは、水路……海や川を使った運送のことです。海を使う場合は、海運と呼ぶ方が一般的ですね。どうして、北前船のように、海を使って荷物を運んでいたと思いますか?」
「それは……昔は陸だと大量に荷物を運ぶ手段がなかったからですよね? 鉄道も車もないわけで」
澪の答えに北浦は微笑んだ。
「満点の答えです。江戸の頃だと、たとえば馬に荷物を積み、陸路を運ぶこともありました。ただ、馬に搭載できる限界は一石といわれていました。一石とは米俵二俵半です」
「はい」
俵がふたつと半分。なるほど、イメージしても、馬に積めるとしてもそれくらいのものだろう。
「それでも陸路で運ばなければならない荷物はいくらでもありましたが、大量の荷を運ぶのはやはり水運です。ただ、そこで考えて欲しいのが、どうして大量の荷を運ぶ必要が生まれたか、です」
「……」
北浦の問いかけに、澪は考え込んだが……。
「……ごめんなさい、わからないです」
「大丈夫です、謝らないでください。あなたがわからないこと、知らないことを教えるのが僕の仕事だから……あっ、そうだ。立ち話になっていますね、ごめんなさい。下へ戻りましょう」
澪たちは一階奥の部屋へ移動した。会議室のようなスペースだ。
「では、さっきの話の続きから」
マジックを手にすると、北浦は置かれたホワイトボードに大きく「江戸」と、書いた。定規を使ったような几帳面な文字だ。
「江戸?」
「そうです。大規模な運送が必要になったのは、ひとつに江戸の誕生があります。江戸は当時、世界有数の大都市です。しかも、基本、食料生産機能は持たない。消費するだけの巨人です。その胃袋も大きい。それを満たすためには、他の土地から食べ物を運んでくるしかなかったわけです」
「あっ……あぁ、なるほど」
「荷物はすべて江戸に向けられたわけではありません。様々な地方で生産力が上がるようになると、当然、それを交換しようという話になります。つまり、売買ですね。ただ、それでも水運の中心はやはり江戸に向けての米です。それにはこの酒田の町も大きな役割を果たしました」
「……庄内米」
「そうです。さすがは酒田市役所の方ですね」北浦は控えめに微笑んだ。「当時の庄内、現在の山形県北西部は豊かな稲作地帯でした。最上川流域では、米沢藩、上山藩、山形藩、天童藩、新庄藩、そして天領……幕府の直轄地の稲田がありました。そこで収穫された米の集積地として、酒田は栄えたんです。その米を求めて、各地から多くの船が来ました。酒田に集められた米は船で遠く江戸や、北海道、他にもいろいろな場所に運ばれていきました」
「なるほど……」
「すいません、なにごとも順番があるので。北前船の話まで、もう少し頑張ってくださいね。北前船の話の前には近江商人たちの活躍についても欠かせないんですが……わかりました、これは今は飛ばしましょう。ただ、河村瑞賢のことだけは話をさせてください。河村瑞賢の名前は聞いたことがありますか?」
「いえ、ありません」澪は即答した。
「日和山公園で見たことはないですか?」
「……いえ、なんども行ってますけど……ちょっと記憶に」
「あそこに河村瑞賢の像があるんですよ」
「え? そうなんですか……だったら見たことはあるかもしれないですね」
「恐らく。河村瑞賢は十七世紀の人物です。元々は材木を商っていて、明暦の大火をきっかけに大きく財を成した商人ですが、幕府と深く繋がって、その事業を請け負うようになります。今でいうなら公共事業ですね。その瑞賢の大きな仕事に海路の確立がありました。奥州の年貢米をそれまでの利根川経由で運んでいたものを、房総半島経由の、いわゆる東廻り航路を開きました。それからすぐに瑞賢が着手したのが、出羽の国……現在の山形、秋田の米を江戸まで送る海路の確立でした。瑞賢がその時に選んだ米の集積地が、ここ、酒田なんです」
「あぁ、酒田が米の集積地っていう話と繋がるんですね」
「はい、そうです。最上川経由で集められた米は酒田を出て、日本海側を巡り、下関で瀬戸内を通り、紀伊半島、下田、そして江戸へと送られることになりました。これが瑞賢が確立した、西廻り航路になります」
「あの……」
澪はおずおずと手を挙げた。
「なんども出てきましたけど、海路の確立ってどういうことですか? 邪魔になってる岩をどかしたりとか、そういうイメージなんですけど……」
「あぁ」北浦は苦笑いした。「確かに、そのまま聞けば、そういうふうに考えるのはしかたないですね。ただ瑞賢がしたのは……そうですね、もっと政治的な意味での海路の整備といえばいいのでしょうか。当時、船は港に入るごとに税金、入港税をとられました。まぁ港の使用料のようなものです。ですから、船主は港に入らず、無理な航海をさせがちだったんです。それを瑞賢は入港税を免除したり、水先案内の船を置いたり、安全な航海がでるきような策を様々、講じたというわけです。幕府の代理人として、大きな権限を持っていた瑞賢だからこそ、できたことなんですね」
「わかりました、ありがとうございます」
澪は礼を言って、ノートにペンを走らせた。
「では、ようやく北前船の話に入ります。河村瑞賢によって西廻り航路が確立しました。これが後の世には蝦夷……現在の北海道まで延びます。北海道から江戸までのルートができたわけですが、北前航路はだいたい、大阪から北海道まで行き来するものを指します」
北浦はホワイトボードから「江戸」の文字を消して、「北前船」「北前航路」と記した。先ほどと同じく、やはり几帳面な文字だ。
「この北前航路を巡って、各地の物産の売買をする船が『北前船』です。ただ、ここが少しややっこしいのですが、少なくとも北前船の時代、それを北前船と呼んでいたのは、大坂や瀬戸内だけで、東北の方では『ベンザイ船』『ベザイ船』と呼ばれていました。
北浦はまたホワイトボードの前に立つと、「弁才船」「弁財船」とふたつの言葉を並記した。
「漢字ではこのように二通りの書き方がありますが……。今は混乱を避けるため、『北前船』で統一します。北前船の最大の特徴は、荷主から荷物を請け負い、それを運んで運賃を稼ぐ……船ではない、ということです。
北前船は別名『買い積み船』とも呼ばれるように、船頭、つまり船長がですね、その才覚によって自由に荷を仕入れて、またそれを自分の好きなところで売る、それによって利益を上げる商売をしていたことです」
「へー、そうなんですね。じゃあ宅配便のトラックというより、移動販売車みたいなものなんですか?」
澪の素朴な質問に、北浦は笑うこともなく、
「そうですね、移動の途中で仕入れも行う移動販売車と思えばいいかもしれません。ただ、それでも主な荷は決まっていました。大坂から北海道へ向かう際は米を運びます。当時の北海道では米の収穫はできませんでしたからね。しかも、北海道……当時、和人が暮らしていたのは、道南のごく一部ですが、それでも人口は増加傾向にありました。そして北海道から大坂へ戻る際は、主にニシン……鯡粕(にしんかす)ですね、鯡から油を抜いて乾燥させた肥料です「待ってください。肥料ですか? わざわざ肥料を北海道から運んでいたんですか?」
「そうです。当時、鯡粕は綿花の栽培に効き目があると言われていました。当時、綿花はとても高く売れる商品で、その栽培に欠かせない鯡粕もかなりの高値で取引されていたんです。北海道から手間をかけて運ぶ価値は十分にありました」
「……なるほど。わかりました」
「米や鯡粕などの主な荷以外にも、寄港地でいい品があれば仕入れ、それを高く買う者がいれば売る。北前船の航海には危険が伴いましたが、それでもうまくいけば、一航海で千両商い……現在の貨幣価値で、一億の儲けが出ると言われていました。まぁ、これは船の大きさにもよるんですが……」
「い、一億ですか……凄いですね。じゃあ、皆、北前船の商売をしたがったんじゃないんですか?」
「いえ、それは……」
北浦は静かに首を横に振った。
「北前船を造るのにも大金が必要ですからね。誰でも簡単に始められる商売ではなかったんです。先ほど省略してしまったんですが、北前船が活躍する前、近江の商人たち……近江商人が各地で商いをしていました。彼らの荷を運賃をもらって運ぶ船があって、その船主や船頭たちが、後の北前船を支える層になります。決められた運賃だけで働かせられていた時と比べれば、当然、やり甲斐はあったでしょうが……」
その後、北浦は北前船の詳細……様々な規模の船があったこと、船乗りたちの人数、海上での生活等……を教えてくれた。
「細かいことを言えばきりがないのですが、そうしたことは後で本を読んでもらえれば……それもまた改めてご紹介しますが……」
明日からは酒田市内に残る北前船関連の歴史遺産を見学をするという話になり、今日のレクチャーはそれで終わりとなった。
「本日はありがとうございました。とても興味深いお話ばかりで、本当に勉強になりました」
席を立ち、澪が礼を言うと、北浦はなにか戸惑ったような顔になった。
「……本当ですか?」
「え?」
「本当に、興味深かったですか?」
北浦の質問の意図が理解できず、澪は戸惑った。
──本当に、興味深かったか?
思わず、自問する。
「それは……」
自分を正面から見つめる北浦の茶色がかった瞳、それを見ているうちに、澪は不思議な気持ちになった。
どんな結果になろうとも、ここは正直に気持ちを語るしかない。
そうでなければ北浦に失礼だ。自分の気持ちを他人に伝える──それがなにより苦手なはずの澪にとって、そんな想いは珍しいものだった。小さくはあったが、それはひとつの奇跡だった。
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