──誠太郎はナミと再会を果たした。
星辰丸にナミを乗せると、誠太郎は彼女を箱館に連れていった。そして、箱館で馴染みの商人の屋敷の離れに匿うことにした。
海人であるナミとの暮らしは、驚かされることばかりだった。海の中でしか満足に生きられないのではと思い込んでいたが、彼女は陸でも暮らすことができた。だが、やはり水を好み、入浴の機会をことのほか喜んだ。
そして、ナミは喋ることができた。
最初の出会いが印象的だったので、海人は常に心の声で会話をするものと思い込んでいたのだ。
口がきけるとはいえ、ナミは多くを語らなかった。無論、誠太郎はそんなことは少しも気にならなかった。そこにナミがいてくれれば、それで十分だった。小さな離れでふたりは愛を育んでいった。
──しかし。
そんな彼らの生活に暗雲が漂うようになった。離れのある商人の屋敷の周囲を、なにやら怪しい者がうろつくようになったのだ。
勘が働いた誠太郎は、星辰丸の若い衆のひとりを呼び出し、問い詰めた。海でナミを拾い、箱館まで乗せてきたことは、さすがに星辰丸の船乗りたち皆の知るところだった。当然、口止めはしていたものの、陸に上がってから妙に金回りがよくなったという、その若い衆から漏れたのではないかと、誠太郎は考えたのだ。
問い詰めてみると、まさにその通りだった。
大金と引き換えに、誰に話したかと誠太郎は尋ねた。だが、ナミのことを漏らしたことは認めたものの、誰に頼まれたかは決して明かさなかった。どれだけ厳しく問い詰めても、若い衆は決して口を割ろうとはしなかった。
結局、その日、誠太郎は若い衆を宿に帰した。しかし、その翌朝、彼は宿の部屋で無残な死骸となって発見された。
誠太郎は商人の屋敷を離れ、ナミを連れて蝦夷地の内陸部に向かった。つき合いのあるアイヌの村を訪ね、そこでナミを匿ってもらうことにした。
ナミを隠した誠太郎はひとり箱館に戻った。
──何者がナミを狙っているのか、それを突き止めるためである。
そのため、誠太郎はこれまで培ってきた北前船主の繋がり……ネットワークを最大限に活用することにした。恩人である高田屋嘉兵衛には頼めなかったが、それでも成果は十分に挙がった。
そして、集まったいくつもの情報を組み合わせてみると、驚くべき事実が判明した。
ナミたち海人……否、その〝宝〟というものを狙い、暗躍しているのは田沼意次の一派だというのだ。
誠太郎もさすがに鵜呑みにはできなかった。田沼意次といえば、幕府の要職から失脚し、失意の中、亡くなってからもうかなりの月日が経っている。
だが調べれば調べるほど、情報を集めれば集めるほど、その話の信憑性は高まっていった。そこには幕府が松前藩から箱館など蝦夷の土地をとり上げ、直轄地としたことと、深く関係があった。表向きはロシアに対する北方警備に力を入れる、とされていたが、それはすべて嘘だった。幕府の……自らを死んだことにまでして、狙い続けた田沼意次の真の目的は、海人の宝にあったのである。
だが、その宝がなんなのか、どうしても突き止めることはできなかった。そもそも、田沼意次自身しか知らないことではないか、そう思われた。
誠太郎は急ぎ、ナミのいるアイヌの村へ向かった。調べた田沼意次の陰謀について詳しく伝えた。
「──わかりました、お話しします」
誠太郎の話を聞いたナミは、すべてを話す覚悟を決めてくれた。
──津軽海峡で誠太郎と出会ったナミは、たちまち彼に恋をした。だが、人と交わることは海人にとって、最大のタブーである。その気持ちを一族の者に知られた彼女は、海人たちの郷である〝海図にない島〟から放逐されてしまった。
それから彼女は津軽海峡にほど近い島でひとり暮らし、来る日も来る日も海に泳ぎ出ては、星辰丸の姿を求め続けた。
「また、いちどだけでも、あなたにお目にかかりたくて」
その言葉に、誠太郎は胸を締めつけられる思いだった。彼女がそこまで想っていてくれたと知っていたなら、すべてを投げ出してでも、彼女を捜しにいったものを……。
──ナミの話はようやく本題に入った。
「その島には祠がありました。人のものではありません、海人のものです。でも、その祠もとても古いもので、海人たちからも忘れられているようでした。そこで私は見つけてしまったのです。海人たちに伝わる秘宝、
──刻磁石を」
刻磁石とは、これも海人たちに伝わる「時穴」の場所を示すもの。
時穴とは、そこを通れば、過去へも未来へも行けるという、海に開かれている不思議な〝穴〟。
──なるほど。
誠太郎にも合点がいった。
それほどの宝ならば、田沼意次ほどの人物が執着するのも納得できる。ナミに見せられた刻磁石は実際、不可思議なものだった。一対の石の円盤でできているが、その表面に彫られた紋様が、まるで生きているように動くのである。
──しかし、どうしたものか。
田沼意次一派に狙われてしまっては、ただの船主、船乗りに過ぎない自分にナミを守りきることは不可能だと思われた。
考えに考え、思慮に思慮を重ね、誠太郎は実に商人らしい答えを出した。
田沼意次との取引である。
──刻磁石を渡す代わりに、自分とナミの命と自由を保障すること。
ナミに了承をとったうえで、誠太郎は行動に移った。あらゆる伝手を使い、時には自身を囮にして、誠太郎は田沼意次一派と接触を図った。
結果、一派の重鎮……のみならず、田沼意次本人と会うことができた。
まさか意次本人が出てくるとは思わず、誠太郎はひどく焦った。そしてなにより、意次という人物は妖怪じみた迫力があった。かなりの高齢故か、痩せて骸骨のようになっていたが、その双眸だけは獣じみた光を放っていた。その目で睨みつけられたら、大概の人間は動くこともできなくなるだろう。
だが、誠太郎は北前船の船主だった。
己の才覚だけで荒波を越え、生きてきたという誇りがあった。
怯えつつも、あらためて刻磁石を渡す条件を告げた。
「……あいわかった。よかろう」
意次は誠太郎の申し出を快諾し、刻磁石と交換に彼とナミの身の安全を約束した。誠太郎は安堵し、意次に刻磁石を渡そうとした。
──しかし。
それまで奥に控えていた大勢の侍に囲まれた。意次に約束を守る気などなく、端から誠太郎を殺し、刻磁石を奪うつもりだったのだ。
──いや、俺だけじゃない。
この後、必ず居場所を突き止められ、ナミの命も……。
だが、十数人はいるだろう侍相手に、誠太郎がなにをできるはずもなかった。
「さぁ、誠太郎とやら。刻磁石を渡せ。そして時穴の場所も吐くのだ。余計な手間が省ける」
意次がそう告げた。
ただ唇を噛み、その死を待つばかりだった彼の前に、突然、助けの手が差し伸べられた。突然躍り込んできた覆面の男たち……その身のこなしから彼らも侍と思われた……によって、その場から救い出されたのだ。誠太郎は刻磁石を手にして、命からがら逃げ出した。
覆面の男たちに導かれた先で待っていたのは、高田屋嘉兵衛だった。
──嘉兵衛様。
「おまえはもっと冷静な男かと思っていたが。わしより無茶をするな」
嘉兵衛の口ぶりからして、誠太郎の身に起こったこと、そして彼が意次と会うに至った次第も、すべて知っている様子だった。
──そうか、あの覆面の者たちも。
あの侍たち、恐らく蝦夷にいる幕府の侍たちだ。嘉兵衛は彼らに対して大きな影響力を持っている。とはいえ、帯刀の身とはいえ、本来はただの北前船主に過ぎない嘉兵衛が彼らを動かすには、相当な無理をしたのだろう。
「今回は助けてやれた。だが、このようなこと、いちどきりだぞ。意次は恐ろしい男だ。並大抵の覚悟では逃げ果せぬだろう。だが、いちど決めたことなら、とことんやるがいい。地の果てまででも、愛しい者と逃げていくがいい」
後から考えてみれば、その時の嘉兵衛は、逃げ場所として、択捉、樺太あたりを思い浮かべていたのだろう。しかし、誠太郎の頭にはまったく別の考えがあった。
それからも意次一派の追跡の手は緩まなかった。
誠太郎はナミを連れ、蝦夷地を逃げ回った。それが可能だったのは、彼を助けてくれる商人、船乗りたちのお陰だった。中には誠太郎の危機を知り、途中の土地での商売を放り出し、松前に、箱館に、駆けつけてくれた者もいた。
しかし、逃げ続けるのはもう限界と思われた。
──頼む、皆。
──俺に、もういちどだけ。
──力を貸してくれ。
──これが最後だ。
そして誠太郎はナミを連れ、星辰丸を船出させた。当然、ひとりで弁才船を動かすことはできない。沖に出るまでは仲間の商人や船乗りたちの力を借りた。陸地が小さく見えるところまで来ると、仲間たちは載せてあった艀で星辰丸を離れた。
風に流されるまま、星辰丸は津軽海峡の真ん中あたりまで進んでいった。
──そろそろ、いいか、ナミ。
誠太郎はナミに呼びかけた。
「はい、刻磁石を使いましょう」
ナミは石の円盤を高く掲げた。
──時穴の場所は一定ではなかった。
ナミもついさっきまで誤解していたが、刻磁石とは時穴の場所を知るものではなく、時穴を自在に作る力を持った道具だったのだ。ただナミによれば、時穴を正しく開くには、影響の少ない、海の真ん中が適していると。
「誠太郎様、ともに願いを。願いを込めましょう」
──わかった。
誠太郎はナミの手に、自らの手を添えた。
もはや、逃げる術はこれしかない。
蝦夷の奥地へ行ったところで、意次は必ず追いかけてくるだろう。
奴らの追跡から逃げきるには……。
あれ、しかない。
しかし。
──おまえは本当にこれでいいのか?
問いかけた誠太郎に、
「当たり前です。好いたあなたと一緒なら、どんな荒波も……時さえも超えていきましょう」
そうだ。
誠太郎は深くうなずいた。
意次から逃げ、この恋を成就させるには、これしかない。
時穴を抜け……時間を超え……。
待つところは、過去か、未来か。
星辰丸の舳先にぼんやりと……だが、船を飲み込むほどの大きな光が生まれた。
ふたりを乗せた星辰丸は、そこへ向けてゆっくりと進んでいった。
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