小説 Kitamae ~荒波と刻を超えて~ 小説 Kitamae ~荒波と刻を超えて~

第26回 酒田まつりを控え、仕事に忙殺される澪。彼女は勇気を出して行動に移る

 

 五月に入ると、澪はますます忙しくなった。

 本来の仕事である北前船関連のことも完全に休みにして、酒田まつりの業務に集中せざるを得なくなった。

 酒田まつりには市民だけでなく、外からの観光客も多く訪れる。そして新聞、雑誌、ネットなどの各種メディアでのPR、問い合わせの対応にと、観光振興課は大忙しだった。

 そんな多忙の中、ぽっかり空いた時間を見計らって、澪は市役所を抜け出した。自転車を走らせ、五分もかからないで市立資料館へ到着する。

 すでに顔馴染みになっている受付スタッフに挨拶すると、奥にいる北浦を訪ねた。

「すいませんでした、北浦さん」

 本を読んでいた北浦の顔を見るなり、澪は謝罪の言葉を口にした。

「なかなかこちらに伺うこともできなくて。正直、ここのところ、北前船の勉強も止まってしまっていて。本当にごめんなさい」

「いいですよ風見さん。お忙しいのはわかってますから。山王まつり、じゃなかった、酒田まつりで大変なんでしょう? わかっていますから」

「あの、今日はその酒田まつりのことで」

 澪の言葉に北浦は首を傾げた。

「実は私、この前、幸成さんから伺いまして」

「はい……?」

「北浦さん、こちらに来てから、酒田まつり、まだ見物されたことがないって」

「え? あぁ、その通りです。人があまりたくさんいるのは苦手なもので」

「嘘ですよね」

「?」

 北浦の返答に畳みかけるように澪は言った。

「北浦さん、酒田まつりの時の様子見ると、昔の賑わってた酒田の様子を思い出して……寂しい? いえ、なんていうんでしょう……表現が難しいですけど、切なくなる? そんな感じだから、お祭りを見るのが嫌だったんじゃないですか?」

……その通りです」

 北浦は苦笑した。

「普段の酒田を見てもなにも感じません。けれど、この街で賑わいの声を聞くと……そうですね。切なくなります。胸が締めつけられるような気分になります。それが嫌で、お祭りの日もここに籠もってました。でも……どうしたんですか、風見さん。今日はなんだが、はっきり言いますね」

「ごめんなさい」

 澪はぺこりと頭を下げた。

「それでも、北浦さんには見て欲しかったんです。賑わってる酒田の街も。せめて、いちどだけでもいいから。どうですか、二日目の本祭りだけでも。お願いします、私が案内しますから、一緒に行きましょう」

「わかりました」

 北浦は開いたままにしていた本をぱたりと閉じた。

「考えておきますよ。……いや」

「はい?」

「酒田まつりの当日ともなれば、風見さんこそ、お忙しいんじゃないんですか?」

「それは大丈夫です。当日になると、意外とすることがなくて。それに田辺の許可もとってますから。行く気になってくれたら連絡ください。待ってます」

 ──酒田まつり当日のことはともかく、少なくとも、そこに至るまでは信じられない忙しさだった。

 ろくに食事の暇もとれずに一日が終わることもざらだった。そんな多忙な中、日々は過ぎていき、本祭りの五日前、五月十五日を迎えた。その日から神宿(とや)開きが始まった。

 酒田まつりの前後にはいくつかの神事があるが、神宿開きもその中のひとつだった。毎年、各町内の持ち回りで、上下それぞれに、神様が泊まる神宿という場所が設置される。祭りが終わるまで、そこに様々な家宝、古くから受け継がれた品などが置かれ、公開されるのが慣わしだった。

 この年の上神宿は五十八区自治会館で催され、日枝神社の使いであるサルを象ったちりめん細工が、夫婦円満、子孫繁栄などを祈願して製作され、展示された。こちらの地区は大火の被害を受け、伝わってきたものが焼失したため、こうして住民たちの手作りの品が用意されることになったのである。

 一方の下神宿はマリーン5清水屋で催され、傘福や明治から伝わる獅子頭、塞道(さいどう)の幕絵が展示される。この塞道の幕というのは、大きな布に合戦や武者絵、縁起ものの吉兆絵を染めた幕のことで、酒田の小正月の行事に使われてきた由緒あるものだ。

 神宿開きが始まると、酒田まつりの準備はラストスパートに入り、街の空気も熱を帯びてくる。

 そして五月十九日。

 その名の通り、宵闇が迫り始める午後五時、酒田まつりの一日目、宵祭りが始まった。いくつかの会場に分かれ、イベントがスタートする。

 日和山の日和山公園ではプロスケーターによるパフォーマンス、空手演舞、ベリーダンス、そして酒田甚句の披露が行われた。

 中町会場では国道112号を交通規制し、秋田県秋田市で夏に行われる祭り、「秋田竿燈まつり」の客演があった。竿燈とは大きな竿にたくさんの提灯を連ねたもので、重いものは五十キロもある。それを手や額、肩に乗せて演技をし、練り歩く。竿燈全体を稲穂に、提灯を米俵に見立てることで、豊作を祈願する。青森のねぶた祭り仙台七夕まつりと合わせて、東北三大祭りのひとつに数えられる。

 中町会場では他にも土崎港ばやしの披露があった。土崎は北前船で酒田とも縁のある街だ。その港ばやしは曳山に囃子手が乗り、彼らが奏でるのに合わせ、山が曳かれていく。そもそも曳山の際に奏でられる囃子で、軽快な節のものから祭りの終わりに演奏される哀切に満ちたものまで、幅広い曲調になっている。

 この日の仕事を終えた風見澪は、市役所を出て近くの中町会場に向かった。通りを埋めた人混みに紛れ、土崎港ばやしに耳を傾けると、急ぎ足で酒田港に向かう。

 その港にある複合施設「みなとオアシス酒田」もまた、宵祭りの舞台になっていた。こちらでは立て山鉾点灯巡行が行われた。

 全高二十二メートルを超える高さの立て山鉾は常に人気を集めているが。今年は山鉾の中から映像を投影する、新しい試みがあることもあって、特に大勢の人出だった。立て山鉾は灯りがセットされていて、内側から光るのだが、その点灯はまだだった。他の見物客とともに、光が点されるのをじっと待っていると、澪のスマホが震えた。

 ──北浦からの着信だった。

「はい、風見です」と澪が応答すると、

『北浦です。今、どちらにいらっしゃいますか?』

「私は港にいます。宵祭りの立て山鉾を見ているところで……

『それはよかった。僕もです』

「え? 北浦さん、見物に?」

『はい、なので、せっかくならご一緒しようかと思って。ええと、僕がいるのは……

 そもそも近くにいたふたりは、その後、すぐに合流できた。そして澪たちはあらためて立て山鉾を見物することになった。

「ここに来ていて、よかったです」

 北浦の顔を見るなり、澪はそう言った。

「どうしてですか?」

「もしも北浦さんが祭りを見るなら、この港に来るんじゃないかって、そんなふうに予想……想像ですね、してたんですよ」

 北浦が黙ったままでいたので、澪は急に恥ずかしくなった。

「ええと、この山鉾も歴史の長い行事のひとつなんですよね」澪は最近、酒田の歴史についてはかなり詳しくなっていた。「始まりは今から約二百三十年前、天明元年、一七八一年からで、祭りに大きな山車……『立て山鉾』が登場したらしいです。高いものは当時から二十メートルもあって、その大きさが評判になって、遠く江戸や大坂にまで知られることになったそうです……あっ」

 説明をした後で、澪は慌てて口を押さえた。

「一七八一年て……。北浦さん、その時のこと……

「はい」

 と、北浦は笑って答えた。

「まだ子どもでしたけど、親に連れられ、見物していました。よく覚えています。今見ても大きいですけど、当時は腰が抜けるほど驚きました。今と違って高い建物だってなかった時代ですから。とてつもないものを見た、人が作ったものとは思えなかったです」

「そうなんですね……。そもそも、高さのある山鉾って、天から降臨する神様をお迎えするため、なるべく高いところに祭場を設ける、という考えから来ていた……って資料で見たんですけど」

「始まりはそうなんでしょうね。実際、神々しかったし。ただ、続くうちに、町や地区の豊かさを競うものになっていったようですが……

 盛んだった立て山鉾だが、二十世紀に入ると風向きが変わる。電気の普及によって電線が引かれるようになり、大型の立て山鉾は練り歩きができなくなってしまったのだ。それ以降も電線がある街路にも対応した背の低いものが造られはしたが、結局、衰退してしまった。

 それが復活したのは、比較的近年のことである。平成八年(一九九六年)に酒田青年会議所創立三十周年の記念事業として、立て山鉾を再生させる計画が持ち上がり、以降、多くの山鉾が造られるようになったのである。

「北浦さん、今の立て山鉾はどうですか?」

「昔と比べてということですか? どちらも素晴らしいですよ」

 見物客の「おおっ」という言葉とともに、立て山鉾が点灯した。気づけば、日はすっかり沈んでいた。暗い空と海を背景に、山鉾は眩い光を放って周囲を圧倒した。

「それに、昔のものはあんなに綺麗に光ることはなかった」

 北浦は呟くように言った。

 やがて……

 えいやさー。

 えいやさー。

 勇壮なかけ声とともに、大小の山鉾が移動を始めた。暗闇の中、巨大な光の塊が動いていく様は、なんともいえない神々しさがあった。

……?」

 北浦はなぜか山鉾に背を向け、暗い港に視線を向けていた。

「なにかありました、北浦さん?」

「実は昼間、ここにも来ていて」

 北浦が振り返った。

「しばらく船を眺めていたんですよ」

「船……? 定期船ですか?」

「はい」

 澪が言ったのは、すぐそこに発着所がある飛島への定期船「とびしま」のことだ。飛島は酒田港から北西三十九キロの沖合にある島だ。周囲十キロほどの小島だが、昭和三十八年(一九六三年)に島の全域が国定公園に、また平成二十八年(二○一六年)に「鳥海山・飛島ジオパーク」として日本ジオパークに認定された、山形を代表する観光地のひとつだ。だが、その飛島には交通手段として、この酒田港からの海路があるのみだ。

「特別、ここに船を見に来たわけではなかったんですが、見かけると、どうしても足を止めてしまいます。ちょうど、とびしまが港に入ってきたところでした」

「やっぱり、船はお好きなんですね」

「はい。船は好きです。それはきっと……

……きっと?」

「んん、それは……

 なぜか北浦は口籠もっていたが、

「すいません、なんでもありません。なんだか恥ずかしいことを言いそうになりました」

「いいじゃないですか、思ったことがあるなら、なんでも言ってください」

「いや、またこんどにしましょう」

 北浦は苦笑した。

 そんな北浦の顔を見ているうちに、澪はある衝動に駆られた。どうしても口に出したくなった。

「北浦さん。私、ずっと聞きたいことがあって……北浦さんに昔のことを聞くのはタブーかと思っていて……でも、どうしても、ひとつだけ確かめたいことがあって」

「僕なら平気ですよ。なにを聞かれても」

「ありがとうございます」と言って、澪は深く息をした。そして、 

「北浦さん、神様や仏様を信じますか?」

……

「この前の取材で痛感したんです。今と昔のいちばんの違いって。人と、神様だったり仏様だったりとの距離感、その差じゃないかって。特に船乗りの人たちは。船絵馬や髷額を見るうちに、本当にそう思うようになりました」

……まず、ひとつ言っておきたいことは」

「はい」

「北前船の船乗りの中で、危険を求めていた者なんか、ひとりもいなかったということです。北前船は商売です。冒険じゃない。だから安全な季節を選び、陸沿いを行きます。それでも……それでも海の上のことだから、危険はやはりあります」

「だから……『間違えましたらよろしく』なんですね」

……そうです。抗えない運命にそれでも抗いたい時、僕たちは仏に、神に祈りました。それは本当に切実なものでした」

「そうですよね。ありがとうございます。わかってはいましたけど、どうしても北浦さんの口から、直接、それを聞いてみたかったんです」

「だからといって……今の人たちが神様と距離が遠いわけではないと、僕はそう思います。だって、今だってこうして祭りは続いているじゃないですか。僕がこの時代に来て、いちばん不思議だったのは、あれでした」 

 腕を伸ばし、北浦は立て山鉾を指さした。

「あぁ、誤解しないでください。なにも立て山鉾だけに限った話じゃありません。こんなに文化文明が進んだのに、どうして祭りや神社やお寺がなくなってないんだろうと、それが不思議だったんですよ」

「あっ、……あぁ」

 澪は言葉にならない声を漏らした。

「それで僕にもわかったんです。着ている物や持ち物は変わっても、本質は変わらないんだろうって。風見さんたちは意識していなくても、今でも神様や仏様は身近にいるんですよ。気がついていないだけです。

 だから、世界中のどんな場所でも。どんな国でも、祭りは続いているんです。

 そうして神様の声を聞き、自分たちの声を届けようとしているんです」

……北浦さん」

 気づけば、澪の頬を熱い涙が零れていた。

 ──北浦が二百年前……北前船の時代から来た男と知って以来、ずっと胸に澱んでいた感情……

 断絶。

 自分とは別世界の人なのだという想い、同じ基盤の上にはいないのだという考え、目の前にはいても、どこか遠いところにいるのでは、という絶望。

 だが、それは違った。

 遠い昔から来た人でも。

 繋がっている。

 そこに断絶など、ありはしない。

 北前船が荒波を越えて遠い土地同士を結んだように、人の日々の小さな営みが、その積み重ねが、二百年という時間を超えて、人と人を繋いでいる。

 それがわかったことが、嬉しかった。

 だから、涙が止まらなかった。

 

 

第26回終わり 第27回へ続く

毎週金曜日更新 次回更新日:2/1

動画「北前船 西廻り航路の秘宝」はこちら