小説 Kitamae ~荒波と刻を超えて~ 小説 Kitamae ~荒波と刻を超えて~

第4回 北浦に導かれ、風見澪は酒田にある北前船関連の史跡を訪ねていた

 

 本間家を離れたふたりは、本町通りをぶらぶらと歩き始めた。市役所の前も通り過ぎ、西の日和山公園の方へ進んでいく。道沿いにあるのは背の低いマンションや銀行、駐車場ばかりで、かつての廻船商人の屋敷が建ち並んでいた面影はどこにもない。

「北前船のことを語る際、酒田は大きな意味を持つ町なんです」

 北浦がふと、そう切り出した。

「それは酒田の町自体が、北前船の記憶を深く刻んでいるからです」

「町自体が? 鐙屋さんみたいな史跡がたくさんあるからですか?」

「それもありますが、大事なのは町自体……町全体の構造なんです」

 足を止めると、北浦はジャケットの胸ポケットから畳んだ紙をとり出した。観光振興課が出している、酒田市の観光パンフレットだった。

 

酒田市中心街地図(参照:酒田市観光ガイドブックさかたさんぽ)

 

 北浦はそこにある酒田のイラスト地図を指さしながら、

「南西に海……港があります。今はもうありませんが、それに面して、かつての多くの廻船商人たちの蔵が並んでいました。この本町通りと港の間です」

「鐙屋さんや本間家の?」

「そうです。そしてその奥……この本町通りには、先ほどもお話しした通り、豪商、廻船商人たちの屋敷が建ち並んでいました。『酒田三十六人衆』はわかりますよね?」

「はい」と、澪は答えた。

 ──酒田三十六人衆。

 澪もさすがに酒田市民として、その名は知っている。

 平安時代末期の武将・藤原秀衡の妹(継室という説もある)・徳尼公が酒田に落ち延びた際に三十六人の家臣が随伴したと伝えられている。その家臣たちが「酒田三十六人衆」であり、その名を継いだ彼らの子孫たちは酒田を支える有力商人となり、町の自治まで行うようになった。

「鐙屋も本間家も三十六人衆です。今ではこの本町通りに残っているのは、そのふたつだけですが、当時はこのあたりは……本当に……賑やかで……」

「……」

 北浦の視線は遠くを……否、ここではないどこか……往時の酒田の町並みを捉えているようだった。 

「……港、蔵、廻船商人たちの屋敷が並ぶ通り、その裏にはまた大小様々な商家や民家がありました。そして町の北西には日和山があって、港の大事な機能を果たしていました」

「そうなんですか? ただの公園じゃないんですか?」

 澪が驚いて尋ねると、

「そうです。詳しい説明は現地に行った時にしますけど、日和山はそもそも風向きや海の様子を見て、船の出航を決めるところなんです。港と一揃いなんです」

 澪は驚いた。子どもが遠足をしたり、春に花見をしたりする公園と思っていたところまで、北前船と深い所縁のあるところだったとは……。

「港、蔵、廻船商人の屋敷、そして風を見る日和山。これが港の基本構成です。でも、それだけではまだ足りない。後はなにが必要だと思います? まだふたつ、あるんです」

 北浦の質問に、澪は町のマップを覗き込んで考えた。これまでの流れからして、ひとつの建物や施設といったものではないのだろう。小さくても山や通り、といった単位のものか……。

「……あっ、わかりました。お寺や神社ですね」

 マップを注意深く眺めてみると、日和山の近く、山の麓あたりに多くの寺社が集まっている。酒田は町のあちこに寺社があるが、そのあたりは特に集中している印象だ。

「そうです。船乗りたちはいつでも命懸けです。陸に残っている者たちもリスクがある商売です。先のことはわからない。だからどうしても神仏頼りになるわけです。今の時代とはその重要性はまるで違います」

「なるほど……ん? でも、それはわかりますけど……お寺や神社、こんなに必要ですか? 大きいのがひとつあれば十分な気がするんですけど……あっ、そうか」

 話しながら、澪は自分で答えに辿り着いた。

「宗派ですね、宗派の分だけお寺が必要……あぁ、わかりました。港町だからこそ、なんですね。いろいろな土地から船乗りが来るから、それだけ多くの宗派が求められてたんですね……」

「そうです、そこに気づくのは偉いですね、風見さん」

「あ、はい……ありがとうございます」

 北浦に満面の笑顔で褒められ、澪は素直に嬉しかった。

「でも、まだ、ひとつあるんですよね? なんだろう……」

 澪はまたマップを眺めた。

「最後のひとつは難しいかもしれません。寺社と違って、現在ではほとんど痕跡が残ってませんからね」

「うーん」と澪は考え込んだ。

「ヒントを出します。寺社とは逆のものです。けれど、それもまた船乗りには必要なものだった」

「お寺や神社とは逆……? だけど、船乗りには……必要……」

 澪はまた考えると……。

「あぁ、わかっちゃいました。女の人ですね。寺社みたいな聖なる、でも、死に近い場所の逆で、俗だけど、生の、生きていることの象徴……ええと、なんて言いましたっけ……あ、花街、ですね」

「その通りです。これまた、よくわかりましたね」

 北浦は、ぱちぱちと、小さく手を叩いた。

「いえ、このマップを見てたら、相馬樓と山王くらぶの名前が目に飛び込んできたもので」

 山王くらぶ相馬樓は元々は酒田を代表する料亭だ。どちらもすでに現役の料亭ではなく、観光施設として生まれ変わり、国の登録有形文化財に指定されている。

「酒田には北前船のお陰で、京都から料亭文化が伝わりました。そして港に入った船乗りたちが大勢いる。自然と花街も発展していったというわけです」

「港、蔵、廻船商人の屋敷、日和山、お寺に神社、そして花街……なるほど、小さな町に北前船を支えるものが、全部入ってるんですね……そして程度の差はありますけど、その痕跡が今でも残ってる……確かに酒田の町自体が、北前船の記憶なんですね……」

 澪は改めて町のマップを見た。

 これまでは、ただの地名、場所の羅列だった図が、不思議なほど立体感を伴って見えた。

 港から上陸した船乗りたちは蔵に荷物を預け、廻船商人の屋敷で商談を済ませる。寺社で航海の無事を祈り、花街で寛ぐ。そして日和山で次の出航の機会を窺う……。

 往時の酒田は今と比較にならないほど栄えていたという。現在、車以外はほとんど人通りもないこの本町通りも、どれだけ多くの人々が行き交っていたか。

「……北浦さん。面白いですね、北前船のこと勉強するの……面白いですね」

「それはよかった。役に立ててよかったです。故郷のことを知るのは、とても面白いことでしょう? それから参考のために言っておくと、こうした、かつての町の構造を残しているのは酒田だけじゃないんです。近いところだと、秋田の土崎港なんかもそうです。機会があれば、是非、いちど訪ねてみてください」

「はい。あ、あの……」

「なにか質問がありますか?」

「北浦さんはどこの出身なんですか? やはり酒田なんですか?」

「……」

 澪の質問に北浦はしばらく考えていた。そして、ようやく口を開いた。

「はい。私も、この酒田の生まれですよ」

 

 

「……桜の季節には少し早かったですね」

 澪は残念そうに呟いた。

 住宅街の道を歩いていった澪たちは、坂を上り、街の西にある日和山公園を訪れた。

日和山公園

 

ここは日本の都市公園百選にも選出された美しい公園だ。特にソメイヨシノをはじめとする桜四百本が咲き乱れる様は圧巻と言われているが、花をつけるのはもう少し先のことだ。そのせいか、公園内にはほとんど人もいなかった。

 公園の西から入ったふたりの前に、大きな池に浮かぶ二分の一スケールの北前船の模型があった。

「あれ、乗れるんですよね。ちょっと行ってみましょう」

 澪の言う通り、岸辺から橋が渡されていて、北前船の模型に乗れるようになっていた。

「あ、僕は……大丈夫です。風見さんだけで」

「は、はい……」

 北浦に振られる形になってしまったが、もう引っ込みもつかない。澪はひとりで橋を渡り、北前船に乗った。

「うーん」

 甲板に立って正面を睨んでみたが……目の前に広がるのはただの池で、なんということもない。珍しくはしゃいでしまった自分が恥ずかしくなった。

「あ、北浦さん」

 いつの間にか北浦が横に立っていた。そして彼もまた、澪がしていたように、舳先を、船の正面を見つめていた。

「……?」

 なにか……北浦の様子がなにか変だ、と澪は感じた。よく見れば、その肩が、そして握った拳がかすかに震えていた。

「……北浦さん、ひょっとして気分悪いですか? 大丈夫ですか?」

 澪が控えめに声をかけると、北浦は首を横に振った。

「船はどこへ行くと思いますか?」

「え?」

「どういう意味です?」──そう問いかけようとした澪だったが、どうしてかその言葉を呑み込んでしまった。

 北浦はまだ真っ直ぐ前を見つめていた。

 しかたなく視線を泳がせた澪は、ぼんやりと桜を眺めた。まだ花のない桜を。

 

 

「これが河村瑞賢像だったんですね」

 池から離れた澪たちは展望広場に上がるため、坂を上っていった。その途中に銅像を見つけて、澪は思わず声を上げた。河村瑞賢像は高い石の台座に乗せられ、編み笠を手にしている。その視線の先には日本海があった。

「これだったら、なんども見てます、子どもの頃から。あー、この人が西廻り航路を開いた人だったんですね……」
「目にするたび、誰だと思ってたんですか?」

 北浦に聞かれて、澪は「うーん」と唸り、

「いえ、その漠然と偉い人なんだろうなーって……でも、だいたいの人はそんなものですよ」

「そうかもしれないですね……あ、あれが常夜燈です。今でいう灯台ですね、船はあそこに点された灯りを目印に航海していたんです」

 北浦が指さした常夜燈は、台座の上に鎮座した石の灯籠だった。

「これ、灯りって蝋燭……じゃあないか、油とかですよね? こんな小さなもので、沖から見えたんですか?」

「見えますよ」

 北浦はきっぱり答えた。

「暗くなれば、他になにも灯りはありませんからね。小さい灯りでも、それははっきり見えます」

「……」

 北浦の物言いがどうしても気になった。これではまるで、自身が船の上からあの常夜燈を見たことがあるようではないか……。
 そんなことを澪が気にしているうちに、山の頂上の展望広場に着いた。中央の四阿の横に置かれているのは方角石だ。一抱えほどある石の円盤には、十二支の東洋式で方角が刻まれていた。

「これで方角を見たんですね」 

 澪は方角石と眼前に広がる最上川、そして日本海を見比べた。そこに目立っているのは大型クレーンと風力発電の白いプロペラだ。

「あの頃とは全然景色が違うんですよね」

 澪の呟きに北浦は黙ったままだった。

「酒田港が栄えていた頃は、ここを埋めるほどの北前船が集まっていたん……」

「当時は」

「あっ。大丈夫です。わかってますよ」北浦の言葉を澪は笑って制した。「昔の港は今と違って、北前船みたいな大きな船は停泊できなかったんですよね? だから沖で碇を下ろして、人や荷物は艀で運んだ」

「……よく勉強しましたね」

 北浦が素直に驚いていたので、澪は照れくさくなった。

「いえ、あの、その……昨日、市役所に帰ってから、慌てていろいろ本を読んだんです。観光振興課だけでも、探してみたら、けっこう北前船関連の本が多くあって」

「そうですか。さすが酒田の市役所ですね……そろそろ寺町や花街の方へ行ってみましょうか」

 ふたりは公園を出て長い坂を下った。

 皇大神社を横目で見ながら進むと、公園に来る時もその前を通った、「割烹小幡」の姿が迫ってくる。そこは古い料亭で、鉄筋三階建ての洋館と木造二階建ての和風建築がひとつになった特徴的な建物で、映画『おくりびと』のロケ地になったことで注目された。少し前までは内部の見学もできたが、今は閉鎖され、古い建物は寂しげに見えた。

 ──なんだったんだろう、あれは。

 先を行く北浦の背中を見ながら、澪は考えていた。

『──船はどこへ行くと思いますか?』

 日和山公園の池で、どうして北浦はあんなことを言ったのか。否、そもそも、あれはどういう意味だったのか?

 意味がわからないといえば……。

『間違えましたら、よろしく』

 あの資料館を出る時に言われた言葉も気になる。なにを間違えたら、というのだろう……。

 本人が目の前にいるのだから、聞いてしまえば済むことだが……。

 澪はなかなかその一歩が踏み出せない。今に限らず、昔からずっとそうだ。そして、他人との距離をとってしまう。

 ──自分の方から。

 今、北浦が遠くに行ってしまったように感じているのも、きっと自分のせいなのだ。

「風見さん」

 北浦が突然、足を止めた。

相馬樓に行きましょう」

 そして、道を左へ折れた。

「風見さんは相馬樓には入ったことはありますか?」

「すいません、ありません。前は通ったことありますけど……また、そのパターンです、ごめんなさい」

「いえ。そもそも若い女性だと、元料亭を見学しようという気にはなりませんよね。でも、相馬樓はかつての酒田の繁栄ぶり、そして北前船で京文化の流入があったことを示す、重要な史跡なんです。

 こういう歌を聴いたことはありませんか?」

 北浦は立ち止まると、あたりを伺い……そもそも、誰も歩いていなかったが……、小さな声で口ずさみ始めた。

 

『日和山 沖に飛島 朝日に白帆/月も浮かるる 最上川/船はどんどん えらい景気/今町 船場町 興野(こや)の浜/毎晩お客は どんどんしゃんしゃん/しゃん酒田は よい港/繁昌じゃおまへんか』

『海原や 仰ぐ鳥海 あの峰高し/間(あい)を流るる 最上川/船はどんどん えらい繁昌/さすが酒田は大港(おおみなと)/千石万石 横付けだんよ/ホンマに酒田はよい港/繁昌じゃおまへんか』

『庄内の 酒田名物 何よと問えば/お米にお酒に おばこ節/あらまぁ ほんに すてき/港音頭で 大(おお)陽気/毎晩お客はどんどん しゃんしゃん/しゃん酒田は よい港/繁昌じゃおまへんか』

 

 

第4回終わり 第5回へ続く

毎週金曜日更新 次回更新日:8/31

動画「北前船 西廻り航路の秘宝」はこちら