「そうです。もう少し歩くと、面白いものが見られますよ」
微笑む北浦の後についていった澪だが、しばらく歩いたところで自分から足を止めた。
「……加賀町」
町名の標識にはそう記されていた。
「これって、石川の加賀、のことですか?」
澪が尋ねても北浦は、
「もう少し歩けばわかりますよ」
と、先に行ってしまった。
「──酒田!」
澪は再び声を上げた。
加賀町から一区画ほど歩いたところに、こんどは「下酒田町」という町名表示があった。
「あっちは加賀で、ここは酒田。やっぱり関係あるんですよね?」
「そうです。ここは下酒田町ですが、すぐ先は上酒田町という町名です。風見さんの仰る通り、加賀町は石川の加賀、酒田町は山形の酒田、それぞれ移り住んできた元の町が由来なのでしょう。町名だけを見ても、ここ土崎が北前船で各地と盛んに交流があった証拠になってるんです。それから風見さん、少し歩いてみて、この通り、どう思いましたか?」
「この通りですか……酒田と同じ名前の本町通り……」
澪は右、左と視線を向けてみたが、言うほどの特徴はないように思われた。普通の民家や小さな商店、医院、コンビニが並んでいるだけの、静かな通りだ。
「うーん、普通の……商店街というほどお店はないですし、まぁ住宅街の通り……ですよね?」
「正解です」幸成が割って入ってきた。「ただ、ここは北前船の時代の町の中心なんですよ。だから、その名前は本町通り。その証拠に、毎年七月に行われる土崎の祭り『土崎港曳山まつり」はこの本町通りが中心なんです」
「曳山?」
「山車のようなものです。大きな武者人形が飾られて、なかなかの見物なんですよ」
「それに……」と、北浦が幸成の言葉を引き取った。「曳山まつりの正式な名称は『土崎神明社祭の曳山行事』といって、土崎神明社例祭なんですが、そもそもの起源は宝永年間に北前船の船乗りが、神明社に神輿を寄進したことが、その始まりと言われています。曳山まつりの時にあいや節というものが奏でられますが、これは、あいや、ハイヤ等と名前が様々ですが、北前船の寄港地に共通して伝わるものなんです」
その説明に澪は「なるほど」とうなずき、
「……北浦さん。あの、私、思ったんですけど、この土崎の町って、酒田と同じ構造をしているんじゃ……」
澪は駅でもらってきた街歩きマップを広げた。
「すぐそこが海……港ですよね? で、この本町通りは町の中心なんだから廻船商人の屋敷が並んでいて、ていうことは、きっとあのあたり、この本町通りと海の間に蔵が並んでいて……」
澪はマップの上を指を滑らせていった。
「あ、見つけましたよ。海と反対側、東の方にお寺が並んでる区画がありますね。じゃあどこかに花街の跡も……」
「残念ながら、今では花街の痕跡はないんです」北浦は言った。「でも、風見さんの発見の通りです。この土崎も酒田と同じです。海、港、蔵、廻船商人の屋敷、寺社、花街、当然、細かな部分は違いますが、酒田と相似形といっていいでしょう。屋敷跡等、直接的な痕跡はないですが、町全体の構造が北前船の記憶を刻んでいるんです」
──本町通りを巡った後、澪たちは車に戻り、金刀比羅神社、寶塔寺、高清水公園といった場所を訪ねていった。
寶塔寺の石塔
金刀比羅神社は廻船商人たちの氏神として栄え、その狛犬は文化財に指定されている。寶塔寺の石製の五重塔は、難破を逃れた北前船乗りが、そのお礼にと大坂から船で運び込んだものだ。
土崎の南東に位置する高清水公園には「五輪塔」があった。これは北前船をはじめ、船が港に入る際の目印としていた、いわば灯台のようなものである。ただ、本来の五輪塔は文化年間の地震で倒壊しており、後にこの地に復元、移設されたものだ。
「あの金刀比羅神社の参道、笏谷石でできてるって話が出てましたけど、それって珍しい石なんですか?」
「あぁ、それはね、笏谷石も北前船交易の証人だからなんですよ」
答えてくれたのは幸成だった。
「そもそも笏谷石は墓石や葺き石として使われるもので、福井でしか採れないんですよ」
「そんな遠くのものが? わざわざ運んできたんですか?」
「わざわざ、というと正確ではないんです」北浦が言った。「米など重い荷物を運んだ北前船が、荷が軽くなってしまうその帰り道、船を安定させるために石を積んだんです。それで各地の銘石が運ばれてきたというわけです。なにもこの土崎だけではありません、酒田の本間家旧本邸の庭も諸国の石が使われていますよ」
「そうですか……石のひとつまで、北前船の影響があるんですね……」
「さてさて」
感心する澪の横で、幸成がぱんぱんっと手を叩いた。
「そろそろ時間です。船箪笥を引き取りに行きましょう」
澪たちが向かったのは、本町通りから少し入ったところにある、大きな屋敷だった。松田という表札が出ている。
「松田さんのご先祖は土崎の廻船商人で」幸成が説明してくれた。「現当主の松田さんのお父様が先日亡くなられて。それでずっと鍵が掛けられていた蔵が久々に開けられたんですよ。いろいろなものが見つかったんですが、その中に船箪笥があって、その写真がいろんなとこを経由して私のところに回ってきたんですよ。特徴からして、どうも星辰丸の船箪笥だろうと……」
幸成が話している間に、松田家の主人が顔を見せ、挨拶もそこそこ、早速、屋敷の裏の蔵に案内してくれた。小さいながらも、漆喰総塗籠の立派な土蔵だった。
「田辺さん、申し訳ないんだけど、急な来客があってちょっと戻らないと。船箪笥は表の方に出してあるから、勝手に積んじゃって大丈夫ですから。あぁ、お金の話もね、後でいいから、じゃあすいませんね」
案内を済ませると、主人は早口でそう言い、母屋に戻っていった。
「じゃあ行きますよ、北浦さん」
幸成が先頭に立ち、重い扉を引いた。澪も慌ててそれを手伝ったが、北浦は凍りついたようにその場に立ち尽くしていた。
──蔵の中は湿気を貯め込んだ、古い紙や木材特有の匂いが充満していた。
外から差し込んだ光の中、それは静かに佇んでいた。
高さは澪の腰くらいまで、そしてちょうど抱えられるほどの大きさ。焦げ茶の木材に黒に近い厳つい金具が前面と四隅を引き締めている。
「……どうですか北浦さん?」
囁くような声で幸成が尋ねた。
「……これは」
北浦はよろめくような足どりで船箪笥に近づいた。そして、がくりと膝をつくと、その船箪笥を抱え込んだ。まるで最愛の人との再会を果たしたように……。
「……間違いありません、これは確かに星辰丸に載せていたものです」
絞り出すような声で言った。
「あ、あの……これが星辰丸の船箪笥だって、見ただけでわかるんですか?」
澪が声をかけても、北浦は答えなかった。
「それからずっと聞きそびれていたんですけど、そもそも星辰丸って有名な船なんですか?」
やはり、北浦は答えなかった。澪の言葉は彼の耳にはまったく届いていないようだった。
彼は荒くなった息を整えると、船箪笥の扉を開けた。そしてその奥に手を伸ばし、左右へと動かした。すると、奥の板が前に倒れ、抽斗が現れた。
「……隠し抽斗」
澪は思い出した。船箪笥は貴重品をしまっておくため、その持ち主しか知らない隠し扉や隠し抽斗を備えているものだと。
──持ち主?
自ら思い至った可能性に澪が戸惑っている間に、北浦は隠し抽斗の中から、なにかをとり出していた。
幸成とともに澪が覗き込んでみると、それは北浦の掌にすっぽり収まるほどの円盤……小さな石盤だった。よく見ると、方位磁石のような模様が刻まれている。
「え……えっ……ええっ!」
澪は思わず声を上げた。
石盤に刻まれた模様が……石に彫られた模様のはずが、まるで生きているように小刻みに動いていた。
信じられないが、それは澪の目の前で起きている、現実の出来事だった。
「北浦さん、それが……」
「は、はい……」
幸成の呼びかけに、北浦は震える声で答えた。否、声だけではなかった。その石盤を持った手も、見てわかるほど震えていた。
「田辺さん……これは間違いありません。これは『刻磁石』(ときじしゃく)です……」
「あっ」
澪は声を上げた。北浦の手から石盤……彼が刻磁石と呼んだもの……が滑り落ちた。澪は慌てて手を伸ばした。地面に落ちる寸前、彼女は刻磁石をすくい上げたが……。
「……!」
その瞬間のことだった。
──澪は突然、見知らぬ場所に投げ出された。
身体が激しく揺さぶられる。
地震の揺れとも違う。
初めての感覚。
頭から水を被る。
なんども、なんども。
風が襲う。
目の前の太い柱にしがみついているが、少しでも気を許せば、身体を持っていかれそうになる。目を開けているのさえ苦しい。
──ここは、どこ?
風だけではない、溜まった水にも足元をすくわれそうになる。
ここは……船の上?
見覚えがある。
実物ではなく、資料館や鐙屋で見た模型、それに日和山公園の池に浮かんでいる二分の一の大型模型……。
──北前船!
澪は心の中で叫んだ。
自分は今、北前船の上にいる。
しかも……。
帆は下ろされ、甲板の上に畳まれているが、太い帆柱が今にも折れそうなほど、ぎぃぎぃと悲鳴を上げている。
嵐だ。
ひどい嵐だ。
船体が大きく揺れた。きしみ、獣の咆哮のような音が響く。
どうすればいい?
いきなりこんなところに放り出され、自分はどうしたらいい?
このままでは星辰丸は沈んでしまう。自分も死んでしまう。
──!
星辰丸?
どうして自分はこの船の名前を知っているのか?
だが、この船の名が星辰丸であることは間違いない。以前から当然の知識として、頭に……否、魂に刻みつけられた名前だったからだ。
なぜなら、ようやく手に入れた自分の船の名、だからだ。
……手に入れた船?
誰が、手に入れた、というのか?
否、そんなことより……自分が今、この沈みかけた船をどうすればいい? 船は今にも沈みそうだというのに……。
──!
突然、時間が飛んだ感覚があった。
その証拠に、畳まれていたはずの帆がいっぱいに揚げられていた。
激しい風に翻弄されながらも、星辰丸は真っ直ぐに進んでいた。その目指す先には……。
荒波に揉まれる海面、そこに眩しい光が広がっていた。星辰丸はその光に導かれているのだとわかった。
真っ黒だった空に日が差し込み、分厚い雲が流されていった。目に染みるほどの青空が広がり、風も穏やかになった。
澪はいつの間にか船の舳先に立っていた。
自分がなにを求めているか、それがしばらくわからなかったが、やがて思い当たった。
あの光を、星辰丸を導いていた光を探していたのだ。
──あった!
明るい日差しの下、ぼんやりとした輝きになっていて気づかなかったが、舳先の正面の海にあの光があった。
その光が揺れた。
大きな波紋が広がり、その中心からなにかが姿を現した。
──広がった長い髪は宝石のように煌めき、その白い肌はただ濡れているからではなく、絹のような光沢を帯びていた。
そして、その蒼い瞳は真っ直ぐ澪を見つめている。
人でありながら、人を超えた美しさ。
青い海の美しさの化身。
──彼女は。
「……!」
澪は唐突に目を覚ました。
木を組んだ高い天井が目に入る。
自分が今、どこにいるのか、咄嗟に思い出せない。
──夢を見ていた?
「大丈夫ですか、風見さん?」
声がした方にゆっくり視線を向けてみると、そこに心配そうな顔をした幸成がいた。屈み込んで澪のことを見ている。
澪はようやく、ここに至るまでのことを思い出した。土崎だ。船箪笥を引き取るため、この土蔵に入った。そうだ、それで間違いない。目の前にあの船箪笥も確かにある。
「とりあえず、これを飲んでください」
渡されたペットボトルを受けとると、澪はごくごくと喉を鳴らし、中身の水を一気に半分も飲み干した。
「私、どうしてたんですか……あ、北浦さんは?」
土蔵の中に北浦の姿はない。大きな箪笥や掛け軸、木箱等が積んであり、隠れる場所には事欠かないが、まさか隠れんぼをしているはずもないだろう。
「風見さん、あなた、北浦さんに惹かれているんでしょう?」
「……え?」
突然の幸成の言葉に、澪は言葉を失った。
「隠してもわかりますよ。資料館で初めてあなたの顔を見た時から そんな予感がありました。だから思わず、余計なことも口走ってしまった」
「……」
──『北の海のことを知ろうとするなら覚悟が必要ですよ』
「教えてください、田辺さん。あなたは知ってるんですよね、北浦さんのこと。北浦さん、どこへ行ったんですか? いいえ、その前に……北浦さんは、いったい、何者なんですか?」
「……」
「お願いします」
「聞けば、後悔しますよ。そして信じられない……いや、あなたなら信じるでしょう。でも、それだからこそ、あなたはきっと後悔しますよ。それでもいいですか?」
「いいです。お願いします」
澪は即座に答え、頭を下げた。
「わかりました。だったらお教えします。あの北浦誠一という男はね……本当の名前は誠太郎といいます。
──北前船に乗っていた男なんですよ」
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