宿で一泊した風見澪と田辺幸成は翌日、加賀温泉を離れた。この後は寺泊、新潟で取材をして、いちど酒田に戻る予定になっている。
金沢を経由して寺泊に到着したのは、午後になってからだった。
寺泊は元々、寺泊町だったものが、近年、長岡市に編入された土地だ。古くから漁港として栄え、今でも「魚のアメ横」と呼ばれる「魚の市場通り」などで知られる、魚の町だ。
──そして、かつては北前船の主な寄港地のひとつだった。
事前に入手していた古地図を確認してみると、漁師町があるところを除くと、酒田などと同じく、典型的な港町の構造をしていたことがわかった。港から商人たちの町、寺社が並び、そして花街まで備えていた。その痕跡は今ではほとんど消えているが、旧大字寺泊海岸部など、港近くの町並みには、往時の面影が僅かながらに残されているという。
「この寺泊の町もね」
寺泊の駅からタクシーで港に向かう途中、幸成がぽつりと言った。
「火事が多い土地なんだ。海風に煽られて、なんども大火事に遭ってる。昔の街並みがあまり残っていないのにも、そういう理由があるんだ」
「それは……本当に……港町の宿命なんですね」
酒田生まれの澪は、酒田大火の話を親から、そして学校でずっと聞かされてきた。だが、自分の生まれる前のことで、正直、実感できる悲しみではなかった。ところが、今回の取材で、橋立やこの寺泊で火災があったことを聞くと、不思議と胸が痛んだ。ぼんやりしたイメージでしかなかった、酒田大火のことも、リアルな災厄として感じられるようになっていた。
──寺泊港は漁船や釣り船が目立つ小さな港だった。佐渡島と結ばれている、佐渡汽船のターミナルもあった。
港をしばらく見学した後、幸成が澪を連れていったのは、港から近い「白山媛(しらやまひめ)神社」だった。
「聚感園(しゅうかんえん)」という、かつての豪族五十嵐氏の屋敷跡である史跡公園を過ぎた先に、寺泊の総鎮守、白山媛神社があった。伊弉冉尊(いざなみのみこと)と菊理媛命(くくりひめのみこと)を祭神に戴き、国家安泰と海上安全、地方開発の神として崇められてきたところだ。
白山媛神社
花崗岩の鳥居をくぐった先、百二十五段の石段を上ると、そこに神社の本殿がある。寺泊を一望できる高台で眺望も素晴らしかった。
「はぁ年寄りにはきついわ。だけど、いい景色なんだよなぁ」
幸成がしみじみと呟いた。
澪は幸成とともに参拝を済ませると、敷地内にある船絵馬収蔵庫に向かった。ここが、寺泊での取材目的だった。
白山媛神社船絵馬収蔵庫
「この中には多くの船絵馬が集められていてねぇ」
幸成の言う通りだった。
南越前町河野の右近家、加賀橋立の北前船の里資料館でも多くの船絵馬を見たが、それに負けない量だった。ぜんぶで五十二枚の船絵馬が整然と展示されている。
船絵馬は航海の安全を祈願して神社に奉納されたものだが、そこに描かれる船は写実性が高く、船の構造、帆の反数、船乗りたちの様子などもリアルに描かれ、奉納時期、奉納者のデータと合わせて、歴史的な、研究的な価値も高い。それ故、ここに収蔵されている船絵馬は国の重要有形民俗文化財に指定されていた。
「ここには安永三年、一七七四年から明治二十二年、一八八九年までに描かれた船絵馬が収められているんだけど」
幸成が説明を始めた。
「まぁ北前船の全盛期だよね。絵で見る北前船の博物館みたいなもんさ」
澪は船絵馬を一枚ずつ眺めていった。
見慣れた北前船の中に一枚、異質なものを見つけて、澪は足を止めた。すでに見慣れた和船ではなく、蒸気船のようだ。説明を見ると「越佐高田丸(えっさたかだまる)」と船名が記されている。
「田辺さん、これは蒸気船ですよね? 北前船じゃありませんよね?」
澪が横にいた幸成に尋ねると、
「そう蒸気船、汽船だね。当然、北前船じゃないよ。この船は寺泊で設立された越佐海運会社の持ち船でね。これは敦賀と函館を結ぶ航路に就航していた船だ」
「いつ頃のものなんですか?」
「この絵馬の奉納は明治十五年、海運会社の設立も同じ年だよ」
「その頃でも、船が汽船になってからでも、船絵馬を奉納する習慣は残っていたんですね、面白い……」
「でしょ? でも残念なことに、この越佐高田丸は明治十九年に乗員乗客ともに遭難してしまったんだ」
「あ、それは……」
「まぁ、ご加護が及ばなかったってことだよね。越佐海運自体も、新興の越佐汽船との争いに敗れて、会社としても終わりを迎えてしまったようで」
その後も澪は展示された船絵馬を、一枚ずつ丁寧に見ていった。
「ずいぶんじっくり見ていたね?」
収蔵庫を出たところで、幸成が話しかけてきた。
「はい。どの絵馬にも船主や船乗りたちの必死の願いが込められてるんだと思ったら、なんだか絵馬の前から動けなくなってしまって。船絵馬って、最初に見た時は、あぁきれいな船の絵だなぁ、くらいにしか思ってなかったんですけど」
「うん。実際に美術的な価値もあると思うし」
「でも、いろんな方のお話を伺ってるうちに、今の私たちでは想像できないほど、北前船の時代って、神様や仏様との距離が近かったんだなって、そう思うようになったんですよ。きっと世界の見え方だって、今とは違ったんでしょうね」
「今なら……北浦君と話ができれば、学べることは多いかもしれないね」
ぼそっと呟くように言った幸成の言葉に、なぜか澪は、ひどく、どきっとさせられた。
寺泊で船絵馬の見学を終えた澪たちは、その足で新潟市に移動した。
新潟も酒田と同じく、かつては諸藩や天領の米の集積地として賑わっていた港町だった。
「新潟もやはり同じですね」
列車の席で澪は新潟の古い絵地図を開いた。享保十年=一七二五年のものだ。
「港に面して町人たちの町、その後ろに寺社がたくさん集まってる構造なんです」
享保十年の新潟・絵地図
絵地図と合わせて、添えられていた説明文を読んでみる。
新潟は川で運ばれてくる砂の影響で地形が変わり、町全体をいちど内陸に移動させている。それが明暦元年=一六五五年のことで、それ以降、町割りに基本的に変化はない。だが、信濃川(当時、大川)に沿って開削されていた堀などは埋め立てられ、また、職能ごとの町分けなどもなくなり、町の様子は大きく変化している。当時の雰囲気を残しているのは、今でも通称、寺町と呼ばれる寺社が集まる区画のみだ。
「あ、寺社だけじゃないですね。古町というところは昔は花街で、今でも料亭が残っているみたいです」
「新潟も敦賀と同じなんだ」澪の言葉を受けて幸成が言った。「江戸末期に開港場……外国との貿易港だね。日米修好通商条約を初めとする安政五カ国条約によって日本の港の中から、五つの主要港が選ばれた。箱館、神奈川、兵庫、長崎、そしてこの新潟。新潟は日本海側で唯一選ばれた港だったんだ」
「つまり、その頃から発展が続いて……敦賀みたいに、だからその分、北前船の痕跡はあまり残っていない、というわけですね」
「そうだね。発展した分、過去の痕跡は消える。その法則はどうしても覆らないんだ」
──澪たちは新潟駅から信濃川を渡って海側に移動し、西大畑町にある「旧齋藤家別邸(旧齋藤氏別邸庭園)」を訪ねた。
旧齋藤家別邸
屋敷の中、大広間に進むと、その先には庭園が広がっていた。砂丘の地形、その斜面を活かして立体的に築かれた庭には、他の庭園では見られない美しさがあった。
「この旧齋藤家別邸は明治から昭和初期にかけて活躍した豪商、齋藤家の四代目当主、喜十郎が大正七年に建てた、その名の通り、別荘なんだ。齋藤家は新潟三大財閥に数えられたほどの資産家だったんだけど、酒田でいえば鐙屋や本間家みたいに、当時の新潟の繁栄ぶりを伝える、貴重な歴史遺産なんだよ」
幸成の説明に、澪は深くうなずいた。
「ここもすごいお屋敷ですよね。でも、これで別荘って……」
「別荘といっても、自分たちが寛ぐというより、大事なお客さんをもてなすための施設でもあるからね。せっかくだから目玉の庭を歩いてみよう」
ふたりは庭園に出た。
庭園は回遊式庭園で、屋敷と一体になった「庭屋一如(ていおくいちにょ)」という趣向で造られたものだ。美しい池が印象的だったが、落差が四メートルはあろうかという滝まで造られているのには、澪も驚かされた。
屋敷に戻った澪は、気になる案内を見つけた。そこには美しい芸妓の写真とともに、「新潟花街茶屋で、お座敷遊び体験!」とコピーが添えられていた。
「なんですか、これ?」
澪が尋ねると、
「新潟が北前船航路の一大寄港地として栄えていた証拠だよ」と、幸成が答えた。「多くの料亭があって、新潟古町は、京都の祇園、東京新橋と並ぶ、日本三大芸妓の町とされていたんだ。その頃をしのんで芸妓さんたちの舞いを見たり、お座敷遊びの体験ができたりするってわけ」
「なるほど。相馬樓みたいなことなんですね、なるほどなるほど」
旧齋藤家では北前船関連の展示の一環で船箪笥も置かれていた。だが、受付スタッフに聞いてみたところ、ここ数日の間に、北浦らしき男が訪ねてきた形跡はなかった。
その後、澪たちは旧齋藤家住宅の主屋である「燕喜館(えんきかん)」や、廻船商人の屋敷跡である、「北前船の時代館 旧小澤家住宅」などを見て回った。
それから港に回り、「みなとぴあ(新潟市歴史博物館)」を訪ねた。そこは明治二年、一八六九年に建てられた旧新潟税関庁舎などを利用した、地域歴史博物館だった。そこにも船箪笥の展示があったので、澪は北浦のことを尋ねてみたが、ここにも立ち寄った形跡はなかった。
「田辺さん、ひとつ確認したいことがあるんですけど」
みなとぴあを出たところで、澪は幸成に呼びかけた。
「土崎の土蔵の船箪笥から、刻磁石だけじゃなくて、針の破片のことを書いた書き付けが見つかって、北浦さんがそれを確認したんですよね?」
「うん」
「それって当然、昔のもの……北前船の時代のものですよね?」
「だと思う。状況的にもそうだろうし、書き付けの紙も古かった」
「ということは……。刻磁石の針の破片、どの船箪笥に隠したとかって、それ、あくまでも当時の話ですよね。その船箪笥が今現在、どこにあるとかまではわからないんですよね?」
「ん? あぁ、言いたいことはわかったよ」
「……はい。北浦さん、確認しなきゃいけない船箪笥がどこにあるか、それを確実に知っている感じですよね。でも、それはあくまでも現代における情報なわけで」
「北浦さんの知識だけじゃ間に合わないってことだよね?」
「そう思うんです。当然、普通の人よりはいろいろ知っているでしょうけど。誰かのバックアップを受けているような気が……」
澪は途中で言葉を呑んで、幸成の顔を見つめた。
「いやいや、違うよ」幸成は慌てて手を振った。「僕じゃないよ。北浦さんと連絡がとれてるようだったら、風見さんにすぐに教えるよ。騙してどうするの?」
「まぁそれは確かに……だったら、誰が北浦さんを助けてるんでしょう。絶対、支援してくれてる人がいると思うんですよ……」
考え込んだが、手がかりもなしに答えが出るはずもなかった。
「その話はとりあえず置いておこう。この先、なにかわかるかもしれないから。それより、次のところへ行こう。日和山に、ね」
「はい……え、日和山ですか?」
幸成の言葉に澪は驚いた。
「ちょっと風見さん。まさか、日和山って酒田にしかないって思ってたんじゃ?」
「は、はい……」
幸成は「はぁ」と溜息をついた。
「勉強してるのは認めるけど、やっぱりまだ付け焼き刃だね。肝心なところが抜けてるよ。日和山は港がある土地なら、全国にある……あったんだ。この新潟にもね」
「なるほど……確かにそうですよね。でも、私、てっきり、日和山って酒田の固有の地名と思い込んでました」
「ま、知らないことは知ればいいさ。さぁ行ってみよう」
港から日和山までは車ならすぐだ。タクシーで移動中も、幸成の説明は続いた。
「日和山っていうのはそもそも、船を出す際に風向きや天候を見極めるための場所だ。だから基本、港近くの高台にあるものなんだ」
「酒田の日和山がそうですよね。名前通り、小さいけど山になってますから」
「でも、この新潟の日和山はちょっと事情が違って……って喋ってる間にもう着いたみたいだね」
タクシーが止まったのは普通の市街地の一角だった。
「で、どこなんですか日和山は?」
澪はあたりを見回したが、それらしい山はない。
「そこだよ。ほら、目の前にあるでしょ」
幸成が指さしたのは、坂の途中にある短い石段だった。
「そこを上ってくの」
「はぁ……」
澪は言われるまま、幸成の後をついていった。だが、石段はすぐに上りきり、頂上も大した高さはなかった。あたりを見回しても、せいぜい三階建ての建物程度の高さしかない。
〝山頂〟には神社の小さな社殿があった。案内板によると「住吉神社」という名前のようだ。
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