「到着。ここが新潟の日和山だよ」
「えっ? だってここ……海なんか見えないですよ」
見えるものといえばマンションの建物や家屋だけだ。よくよく目を凝らしてみると、ビルとビルの隙間から海を行く大型フェリーらしきものの姿が見えたが、どうもはっきりしない。やはり、海が見えるとは言い難い場所だ。
「今は、ね」
幸成は海の方角に顔を向けた。
「新潟は砂と戦い続けている土地でね。さっきも少し話したけど、川から運ばれる砂のせいで次から次へ砂丘ができた。ちなみにこの日和山も砂の山なんだけど……。新潟に来る前に話してたの覚えてる? 砂のせいで地形が変わったから、明暦元年に町ごと引っ越しをしたって」
「はい。……あ、なるほど。ここより高い砂丘ができちゃったんですね、後から」
「そういうこと。当時はこのあたりでいちばん高い場所だったんだ。ちょっとこっち来てみて」
幸成に手招きされ、澪が近づくと、そこには厚みのある円形の石があった。それには方角が刻まれていた。
「……方角石。ホントにここは日和山だったんですね……」
澪は感嘆の声を上げた。
「そう。この方角石は明治二十四年になってから置かれたものだけどね。江戸の頃から、ここは船乗りだけじゃなくて、町の人たちにも馴染み深い場所だったんだ。麓には茶屋なんかもあってね。だけど、割と最近までは忘れられた場所だったんだ」
「歴史的な遺産なのに?」
「うん。なにしろ、海が見えない日和山だからね。それにもっと海に近い場所に、別に日和山って地名ができたりしたのも不運だったんだけど。でも、最近は地元の人たちの努力で、ここが新潟の歴史を語るうえで貴重な場所だってことが知られてきてるんだ。ここの人たちは『酒田の日和山のように盛り上げていきたい』って言ってるんだよ」
「それは……嬉しい話ですね」
地元にいると逆に目に留まりにくくなるが、北前船遺産の保守、アピールということでは、酒田は先進の自治体なのだ。今回の取材でいろいろな土地の人たちと話して、それは痛感した。
幸成の話を聞いたうえで、澪はあらためて海があるはずの方角を眺めてみた。やはりビルに邪魔され、まともに海は見ることができない。
「田辺さん、二百年前は、北前船の時代なら、ここから海が見えたんですよね?」
「うん」と幸成はうなずいた。
「北前船の船乗りはここから風向きや海の様子を窺っていたんですよね……だったら、二百年前、北浦さんもこうして、海の方を見ていたんですよね……」
幸成に語っているうちに、また右の掌が熱くなっていた。現実と幻……北前船の時代の光景が溶け合っていく、すでにお馴染みの感覚だが、今はなぜか怖くはなかった。こちらの世界にしっかり踏み留まっていられる自信があった。
「僕、ちょっと疲れちゃったな」
幸成の提案でふたりは日和山を降りて、ひと休みすることにした。日和山の〝中腹〟、石段の横に、ちょうど白くて四角い小さな建物のカフェがあった。
「そういえば田辺さん。あっ、美味しい」
澪は運ばれてきた珈琲に口をつけた。
「前から気になっていることがあったんですけど……ちょっと訊きにくくて」
「なんでも言って。訊かれて困ることがある歳じゃないよ」
「それじゃあ……北浦さんは二百年前の、北前船の時代から来た人ですよね? つまり、その時代の生き証人ですよね? 北前船の研究家である田辺さんからしたら、生きた宝物というか、百科事典というか……記録だけだとわからないことって、きっとたくさんありますよね? それを北浦さんから聞き出したりしたんですか?」
「あー、そういう意味ね。うん、たくさん聞こうとしたよ」
幸成は即答した。
「最初は半信半疑だったけど、北前船の話を聞いているうちに、この人は本物だと確信した。そこでね、ムクムクと膨れあがったわけ。この人から話を聞き出したら、北前船の研究が大いに進むぞ、と」
「ですよね……」
「北浦さんも協力的だったからね、僕はあれこれ聞いたよ。あの時代の人でなきゃわからないようなこと、今では伝聞でしかわからないこと、たくさん、そりゃもうたくさん……でもね」
「はい」
「やめた。一切聞かなくなった。それまで聞いた話も頑張って忘れるようにした。頑張らなくても、すぐに忘れちゃうからね、それは大丈夫だったんだけど」
「どうして……ですか?」
「んー、そりゃ答えるのが難しいんだけどねぇ……」
そう言って、幸成は残ったカップの珈琲を飲み干した。それでも足りず、コップの水をごくごくと流し込む。
「北前船の話は、僕が聞く前から、むしろ北浦さんの方が積極的に話してくれたくらいなんだけど、なんでかなぁ、ちょっと悲しそうに見えて」
「……」
「多分、風見さんも言われたと思うんだけど、北前船のことをもっと多くの人に知ってほしい、というのが、北浦さんの口癖みたいなもんで」
「はい、私も聞きました」
「その北浦さんの言葉に嘘はないと思うんだ。でも、人間、白か黒か、じゃないでしょ? 北浦さん、北前船のことを伝えたい反面、伝えるのが辛いようにも思えて」
「……」
「いちど思っちゃったら、もうどうしようもなくてね。それで北浦さんの顔見てるうちに、なんだかわかってきたんだ。北前船のことは、北浦さんにとって、ものすごく大切なものなんだろうなって。だから、聞いたことをぜんぶメモしてたノートも捨てた。はは、ちょっと、もったいなかったね」
「そんなことないですよ。田辺さんは優しい人なんですね」
澪の言葉に、幸成は照れ隠しのようにそっぽを向いた。そしてしばらく、ぼんやり窓の外を眺めていたが、
「さてと。もうすぐ日が暮れそうだけど、どうしようかな。酒田に戻る時間もあるしね……」
「他にも見られるところがあるんですか? 私の方は時間は大丈夫ですから、是非。北前船関連のことなら、少しでも勉強しておきたいです」
「じゃあ行こう。『みなとぴあ』の方に戻ることになるけど、まぁすぐそこだから。そこを見たら、新潟とはお別れ、ね」
幸成が最後に連れていったのは「湊稲荷神社」だった。あまり広くはない境内の中に、幸成のお目当てのものが鎮座していた。
それは一対の狛犬だった。
台座部分を含めると、澪の身長よりも少し高い。案内板を見ると、
『湊稲荷神社願懸け高麗犬(みなといなりじんじゃがんかけこまいぬ)
自分の願意(ねがいごと)を心に念じながら男の人は向かって右/女の人は左の高麗犬を回して祈願して下さい』
そして、新潟市指定有形民俗文化財であることも明記されていた。
湊稲荷神社願懸け高麗犬
「願懸け高麗犬……回るようになってるんですね」
「珍しいでしょ。ちなみにこの高麗犬は二十世紀末に作り直されたものだけど、元々は十八世紀半ばに奉納されたものなんだ」
幸成は高麗犬をじっと見て、
「この高麗犬には悲しい言い伝えがあってね。新潟が湊町として賑わっていた頃、多くの船乗りが来た。古町のことで説明したように、この町は花柳界も賑わっていた。
そうなると、船乗りと遊女の恋愛沙汰なんかもたくさんあった。だが、船乗りはいつまでも陸にはいない。遊女は別れが悲しい。ずっと陸にいて、海に出て欲しくない。そんな時、遊女はある話を耳にした。西風が吹いて海が荒れ、船出ができなくなった。それで遊女はこの高麗犬の顔を西に向けて、願懸けをしたんだ。
それを『荒天祈願』といってね。荒れた天気を祈ると書くんだけど」
「『荒天祈願』……すごい言葉ですね」
「うん。それから、この高麗犬を回して願懸けするというのが一般的になって、今に伝わっているんだ。せっかく来たんだから僕たちもやってみようよ」
「はい、ええと……」
案内板に従って、幸成は右、澪は左の高麗犬の前に立った。
「回しながら、お祈りするんですよね……」
力を込めて回してみたが、予想していたよりずっと重い。少し回しただけで息が切れてしまった。
「大丈夫、風見さん? 願いごとはできたの?」
「はい。でも、すごく重くて」
「え? こっちはそんなに重くなかったよ。……あぁ、なるほど」
「なんです?」
澪は幸成の意地悪そうな笑顔を見逃さなかった。
「この高麗犬はね、願いが重いほど、回す時も重くなるって言われてるんだ。風見さん、よほど真剣にお願いをしたと見えるね。いったい、なにを願ったの?」
「ダメですよ、教えませんよ。他人に話したら、願い事叶わなくなるって常識じゃありませんか」
「ケチくさいなぁ。いいじゃないちょっとくらい」
「だから……田辺さんと同じことですよ、きっと」
澪がそう言うと、幸成は首を捻った。
「なにかなぁ。自分でなにお願いしたか、もう忘れちゃったよ。年とるって怖いね」
幸成にごまかされて、澪は軽い溜息をついた。
自分の願いも、幸成の願いも、今はそんなことはひとつに決まっている。
──ただ、北浦が無事でいますように。
その日の夜、澪たちは酒田の街に戻った。
次の日、市役所の観光振興課に出勤した澪が、同僚たちに福井や石川のお土産を配っていると、田辺紀生が出勤してきた。
「親父、面倒は起こさなかった?」
澪の顔を見るなり尋ねてきた紀生に、思わず頬が緩む。
「大丈夫ですよ。北浦さんに負けない、北前船の専門家でした。お陰で短い期間で効率的に勉強できました」
「本当に?」
「本当ですよ。昨日、酒田の駅でお別れしたきりですけど、こんど、あらためてお礼がしたいと伝えてください」
「うーん。まぁ風見さんに迷惑かけてなきゃ、それでいいんだけどね……うーん」
紀生が唸っていると、澪のスマホが震えた。
「すいません……あ、お父さんです、幸成さんですよ。ちょっと出ますね」
紀生に断りを入れ、澪は幸成からの電話に出た。
「はい、風見です。おはようございます。昨日まではいろいろとお世話になりました」
『いや、そんな挨拶はいいから。ちょっと思い出したことがあってね。早めに知らせておいたほうがいいと思って』
「……はい」
幸成の言葉に、妙に胸がざわついた。
『片桐さんて人のことなんだ。函館の人でね。函館市立博物館で学芸員をしている』
「函館の……」
『うん。片桐さんはまだ若いけど、学芸員という仕事をしながら、個人でもずっと北前船の研究を続けてる人でね。僕もそれで知り合ったんだけど、前、北浦さんに函館に行ってもらったことがあるって言ったでしょ? 覚えてる?』
澪は「はい」と答えた。北浦は幸成のしている不動産の仕事で函館に行ったことがあったはずだ。
『その時、せっかくだから片桐さんに会うように進めたんだ。そうしたら僕の予想以上にふたりは意気投合したみたいで、函館で会った後もメールしてたみたいなんだ』
幸成が話したいことがやっとわかった。
「つまり、その片桐さんが北浦さんを助けていると……?」
『まぁそう考えるでしょ。だからさっき博物館に電話してみたんだけど、北浦さんのことは知らないって言われちゃってね。訪ねてきてないって』
「そうだったんですか……」
『それはそれとして、これから函館に行った時にまた、北浦さんのこと、詳しく聞くつもりだから。明日からも、またよろしくね』
幸成からの電話はそれで切れた。
──その日、澪は夕方まで多忙だった。取材旅行で留守にしていた間に溜まっていた書類やメールの処理だけで一日、終わってしまった。
定時を少し過ぎた頃に急いで帰宅し、明日からの取材の支度をする。こんどは北日本──青森、松前、函館を訪ねる予定になっていた。
翌日の朝、酒田駅の待合室で幸成を待っていると……。
「……おはよう」
顔を見せたのは、田辺は田辺でも、父の幸成ではなく、息子の紀生の方だった。
「どうしたんですか?」
「いや、こういう次第」
紀生は引いていた大型のキャリーバッグを前に出した。
「僕が一緒に行くよ」
「あの、幸成さんになにか?」
「いや、なにかってほどじゃないんだ。ただの風邪だよ。でも歳が歳だからね、無理はさせられないから。──だから僕が同行することに」
「田辺さんが?」
「わかってるよ、僕じゃガイドは務まらないことはね。もう北前船については風見さんの方が詳しいだろうから。でも、カメラくらいは回せるし」
そう言うと、紀生は肩にかけたボディバッグから、小型のビデオカメラをとり出した。
「でも、市役所の方は大丈夫なんですか? 三、四日くらい空けることになりますけど」
「あー、それなら全然平気。風見さんも知ってるでしょ。僕がいない方が仕事が回りやすいって。実際そういうとこあるしね」
「……わかりました、それではよろしくお願いします」
澪は深々と頭を下げた。
「親父が風見さんに謝っておいてってさ。それから函館取材は明後日の予定だよね? そこで博物館の片桐さんと会えるようにアポとってくれたって」
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