高田屋嘉兵衛という男がいた。
彼は淡路島の都志という土地に生まれ、幼い頃から北前船の船主に憧れていた。商人、船乗りとしての修行を続け頭角を現し、やがて自分の船を持つに至った。
時に寛政八年(一七九六年)。
出羽の国、酒田湊で新造を果たした、その船の名は辰悦丸。
後に嘉兵衛は北前船の船主を代表する人物となり、蝦夷地との交易の確立、箱館発展に大きく寄与、そして択捉での漁場開拓等、一北前船主の枠を超え、歴史に名を残した人物である。
だが、辰悦丸を手に入れた時、嘉兵衛はまだ二十八歳の若者であった。その後、自身に迫ることになる様々な運命のこと等、まだ知る由もない。その時は、進水したばかりの辰悦丸の舳先に立ち、荒波の先の水平線に真っ直ぐな想いを馳せるのみであった。
──そして。
その辰悦丸に熱い視線を向けている少年がいた。
彼の名前を誠太郎といった。
酒田近隣の農村の生まれで、その日はたまたま湊近くの商店に使いを頼まれ、町まで来ていたのだが……。
──なんだ、あれは?
海を観ていた誠太郎は、驚きのあまり、口をあんぐりと開けた。
彼は幼い頃から海が好きで、酒田まで来ると、必ず海を眺めて帰るのが習慣だった。村と違い、酒田湊はいつでも大勢の人で賑わっていて、誠太郎はそれも好きだったのだが、その日はまた特別だった。まだ昼だというのに、あちこちで酒が振る舞われ、赤い顔をした商人や人足たちがふらふらと歩いていた。
──あれ、なんだ? なんだ?
誠太郎は沖に浮かぶ辰悦丸を指さして叫んだ。これまで湊では見たことのない、それは巨大な船だった。地主の屋敷がそのまま海に浮かんでいるようだ。
この世の中にあんなにでかい船があるのか……それは誠太郎にとって、天と地がひっくり返ったような驚きであった。
──なぁ、あれは?
興奮した誠太郎は近くにいた酔った人足の袖を引いた。
「うるせー、やろこ(男の子)や。ありゃ高田屋嘉兵衛様の千石船でのぉ」
──千石船?
「千石、米が載るから千石船や」
──千石。
それが正確にどれほどの量なのか誠太郎にはわからなかったが、人足の言いようからして、相当なものであることは伝わってきた。
──あれでどこ行くんだ?
「大坂や江戸や。言うても知らんやろ。遠くやうんと遠くや。庄内の米、運ぶんや」
「そんだけじゃないど」別の人足が話に入ってきた。「高田屋の旦那は蝦夷まで商いに行く言うとるんや」
──蝦夷かぁ。
その名は誠太郎も聞いたことがある。北の果ての地で、出羽の国よりも雪深いところだ。
──あの船で。
そんな遠くまで行くのか。
大きな帆いっぱいに風を受け、遠くの、遠くの海まで。
──決めた! 俺も船さ持つ!
誠太郎がそう言うと、近くにいた人足たちは腹を抱えて笑った。
「このやろこ、なに言うかと思えば、はらだくさいのぉ(馬鹿げている)」
だが、そんな腐す言葉は誠太郎の耳には入らなかった。彼はただ、辰悦丸の威容をその瞳に刻もうと、それだけを考え、必死に目を凝らしていたからである。
──そして、それから十数年の時が流れた。
幼い日の宣言通り、誠太郎は商人として、そして船乗りとしての修練を重ねた。だが、自分の船を手に入れるのは簡単ではなかった。雇われ船頭(船長)としての日々が続いたが、そこに意外な支援者が現れた。
誠太郎が北前船の船主になることを志したそのきっかけを作った、高田屋嘉兵衛だった。嘉兵衛は誠太郎の船頭としての腕、そしてその熱意を知り、自分のために新造させていた船=星辰丸を格安で譲ってくれたのだ。
こうして晴れて北前船の船主となった誠太郎は、自ら船頭を務め、商売に励んだ。苦よりも楽を多く感じる毎日だった。少年の頃からの夢だった、海を越えて自分の才覚だけで自由に商売をする楽しみを満喫していた。
そんなある時……。
星辰丸は深浦の湊にいた。
深浦を発ち、蝦夷地は箱館に向かう予定だった。後はもう、一気に津軽海峡を渡るしかない。津軽海峡は難所である。対馬海流に乗れば一日もかからず蝦夷に到達できるが、天候が荒れることも多い。深浦はそのための風待ち港、慎重に風を読み、海の状態を確認するのが習いとなっている。
誠太郎はまだ若いものの、船頭の中でも特に風を読む力に長けていた。そしてなにより、航海については常に慎重な男だった。湊近くの円覚寺裏にある「日和見山」の頂に登り、出帆の機会を窺った。
──よし、船出は明日かぁ。
翌日、星辰丸は深浦の湊を出た。
海流と風に助けられ、実に順調な航海だった。
だが、津軽海峡の半ばに差し掛かった頃、星辰丸は突然の嵐に巻き込まれた。空はたちまち墨を流したように暗くなった。風は吹き荒れ、波は巨大な獣の顎の如く、船を舳先から呑み込もうとする。
すぐに帆は下ろしたものの、それで凌げるほど甘いものではなかった。航海経験が豊富な誠太郎にとっても、初めて遭遇する激しい嵐だった。このままでは転覆の可能性も高い。それを避けるため、年嵩で経験も豊富な親仁(おやじ)(水夫長)が帆柱を折ることを提案してきた。そうすれば転覆を免れるかもしれないが、船は推進力を失う。難破である。
どうすべきか……。
決断を迫られた誠太郎は呻吟した。
その時、舳先で踏ん張っていた表司(おもて)(航海長)が誠太郎の名を呼んだ。風によろけながらも表司の傍に駆け寄った誠太郎は、思わず言葉を失った。
──あれは。
船の舳先の斜め前方、そこの海面が鮮やかに輝いていた。
その光を認めた瞬間、誠太郎は激しい衝撃を受けた。全身に……否、魂に見えない力で強く叩かれたのだ。
──帆を上げろ!
誠太郎の言葉に、親仁は目を丸くした。
「はらだくさ……」
無理だ、帆を下ろした状態にあっても帆柱が折れそうなこの強風の中、そんなことをしたらどうなるか……。
だが、親仁は口を噤んだ。
──帆を上げろ!
誠太郎の言葉には有無を言わせぬ迫力があった。どんなことをしても、その決意を翻させることはできない。そして自分には知ることは及ばないが、誠太郎は海の男として間違いのない根拠を持って、その命令を下している……そう、わかった。
──おまえら、帆、上げろ! 早く!
若衆たちに命じると、親仁も自ら綱を握った。そして、嵐の中、星辰丸は再び、帆を張った。
──あの光を見失うな! 追いかけるんだ!
表司と親仁に命令し、誠太郎も自ら舳先に立った。
真っ暗な空の下、星辰丸は走った。
波に煽られ、船は上下に、そして左右に、大きく揺さぶられた。
──光を! 光を追うんだ!
声の限りに誠太郎は叫んだ。
雨粒と波飛沫に顔を打たれ、息をすることもままならない。それでも誠太郎は叫び続けた。
「追うんや! 追うんや! 追うんや!」
どれほどの時間が経過しただろう。
雨と風に苛まれ、その苦しさから俯いていた誠太郎は、ふと感じた気配に顔を上げた。
前方の暗闇の中、星々が見えた。
誠太郎は混乱した。あれは空の高さではない。岸辺だ。だが、そこには星よりも眩しい無数の光が煌めいていた。ひとつひとつが、常夜燈の灯りよりもずっと明るい。
あれは……箱館?
いや、そんなはずはない。高田屋嘉兵衛によって開発が進んでいるとはいえ、箱館はまだ寒村だ。住んでいる者たちの数も知れている。
それが、あの地上に降り注いだ星の海のように、光り輝くはずはない……。
しかし……。
──あの地は箱館。
──ん?
誠太郎の頭で直接、その言葉が形になった。耳を通して聞くよりも、もっと美しい、音楽のような声だ。
女の、声だ。
──ただ、この時代の箱館ではありません……函館……近くにある、あれ、の影響で遠い未来の景色が見えているだけ……でも、安心して。箱館に近づいた証拠ですから。
──箱館に近づいて……? おい、聞いたか? 今の声を! 女の声だ!
近くにいた若衆に尋ねたが、首を横に振られた。
……やはり、自分にしか聞こえない声。
「見てくれ!」
表司が天高くを指さした。
真っ黒だった空が鮮やかな青空になっていた。あれだけ空を埋め尽くしていた分厚い雲は、いったい、いつの間に消え果ててしまったのか……そして、正面には見慣れた陸地が……箱館の地が迫ってきていた。
──。
誠太郎は再び、舳先に走った。
海もすでに驚くほど凪いでいた。だが、荒波の中に彼が見つけた光は、まだ星辰丸のすぐ目の前にあった。
──ありがとう。おまえのお陰だ。
誠太郎は光に向かって呼びかけた。その中にさっきの声の主がいると、直感的にわかっていた。
──おまえの顔、見せてくれ。
誠太郎は海中の光をじっと見つめていた。
すると、静かな海面に波紋が広がり、美しい娘が顔を見せた。
広がった長い髪は宝石のように煌めき、その白い肌はただ濡れているからではなく、絹のような光沢を帯びていた。
そして、その蒼い瞳は真っ直ぐ誠太郎を見つめている。
人でありながら、人を超えた美しさ。
青い海の美しさの化身。
──ナミ? それがおまえの名か?
誠太郎の呼びかけに、美しい娘ナミはこくりとうなずいた。
名前を確認できた。ただそれだけの、簡単な意思の疎通が、誠太郎には涙が出るほど嬉しかった。
──それが、ふたりの、恋の、始まりだった。
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