土崎に行った翌日、日曜日。
澪は午前中は自室に籠もり、ただぼんやり時間が流れるのを待つようにしていたが、午後から思い立って出かけることにした。
「あら、車じゃないの?」
玄関脇で自転車を出していると、母の律子が買い物から帰ってきた。
「うん……あっ。やっぱり歩いていく」
結局、自転車もガレージ脇に戻して、澪は小さな鞄を手に徒歩で家を出た。
酒田の街は小さい。だが、買い物等で用事を済ませようと思えば、国道沿いの大型店に行く必要があり、どうしても車が要る。ただ、酒田の街中だけを巡るなら、自転車くらいがちょうどいい。それでも徒歩でも回れないことはない。
それに……あの二日間、北浦とは歩いて街を回った。
──特に行く当てもないまま、澪は街の中心部の方に向かって歩いていった。普段あまりしたことはないが、なにも考えず、足の向くままに任せてみようと思っていた。
気づけば相馬樓の前を通り、坂を上っていた。寺や神社の敷地の草深い匂いで胸を満たしているうちに、北浦とこのあたりを一緒に巡った記憶が甦ってくる。
──澪は北浦に語った。
同じ酒田の街でも、駅から見るのと港から見るのとでは、まったく別の顔が浮かぶ。駅から望めば寂れたように見えるが、港に視線を置けば、北前船の歴史遺産が多くある、小さいけれど。豊かな街。
あれ、と同じだ。
北浦と街のあちこちを回った。
あの時はただ、資料館の学芸員に案内をされ、北前船関連の場所を巡っている……それだけの認識だった。
しかし、北浦誠一が……誠太郎という、北前船が栄えていた時代から来た男だと思えば。
──あの道行きも、まったく違うものとして記憶の中から立ち上がってくる。
北浦はただ知識を披露していただけではなく、我が事として、北前船のことを語っていた。北前船時代の繁栄の面影が薄れた──いくつかの遺産に封じ込められたに過ぎない、この酒田の街を、北前船のことなど、なにも知らない者の相手をして、その頃の賑わいの様子を少しでも伝えようと奮闘してくれていたのだ。
否、自分を相手にしていただけではない。彼はこの街を訪れた人たち相手に、日常的にガイドも務めていた。北前船にさして興味を持っていない者も多かっただろう。
北浦は……どんな気持ちだったのか。
彼の言葉が甦る。
北前船のことを少しでも知って欲しい、興味を持って欲しい、と。
どんな気持ちで言っていたのか。
あれは、今はもうないものを、せめて人々の心の中だけにでも甦らせたいという、北浦の必死の、魂からの叫びではなかったのか。
澪の足は日和山公園へ続く坂道を上っていた。あの日も北浦と見た、「旧割烹小幡」の焦げ茶にくすんだ建物が視界に入ってくる。
公園に入った後も足を止めず、そのまま日和山の頂まで登る。
四阿の横にある、方角石の前に立つ。北浦に教えてもらった。北前船の船乗りたちはこれで方角を確認し、海と風の様子を読み、船出の機会を窺う。
今でも酒田の港は栄えている。平成二十二年に国土交通省から、山形県内で唯一の「重要港湾」指定を受け、国際貿易港としての地位を確立した。隣接する大型工場で生産された製品が船積みされ、次々と港を出て行く。それでも、北前船の時代の繁栄とは意味が違うだろう。景色も違う。
──変わらないものといえば、その先にある、海だけだ。
時を超えて現代に来て、ここを初めて訪れた時、北浦はなにを想ったのだろう。
港の様相が一変した、それを知っての絶望なのか。
それとも、変わらぬ海を見て、そこに希望を見出したのか。
澪にはなにもわからなかった。
ただひとつ、はっきりしていることは……。
「──風見さん」
背中から声をかけられた瞬間、澪の心臓は止まりそうになった。
「北浦さん!」
思わず声が漏れた。そして振り返った先にいたのは、
「田辺……課長」
歳の割には童顔……そこに困ったような表情を浮かべ、申し訳なさそうな風情で立っていたのは、澪の上司の田辺紀生だった。
「どうして、こんなところに……散歩ですか?」
澪に問いかけられると、田辺は「うーん」と唸った。
「……いや、ちょっと言いにくいんだけど」
「言ってください。気になります」
澪に急かされると、田辺は渋々という感じで、
「その……後をつけて、いや、ついてきた」
「……え? 私の、ですか?」
「……うん」
「どこから……ですか?」
「風見さんの家から」
なにを言われてるのかわからない。澪の顔が強ばった。
「……ちょ、ちょっと待ってください。なんですか、それじゃあまるでストー……」
「あー」田辺は頭を抱えた。「そう言うよね。でも違うんだ。証拠もあるって。ケータイ、ケータイ見てみて。あ、スマホ、スマホ」
澪は訝しく思いつつも、手にした小さな鞄からスマホをとり出した。着信履歴が残っている。すべて田辺からでかなりの回数だ。
「ほら、それが証拠。なにも黙って後をつけてきたわけじゃないんだ。いくら電話しても風見さんは気づかないし」
「ごめんなさい、田辺さん」澪は真顔のままで言った。「状況が余計、わからなくなりました」
「わかった……わかった。最初からちゃんと説明する。僕はちょっと用があって、君の家を訪ねることにした」
「日曜日に自宅を? 電話もなくですか? そこからもうおかしいですよね」
「あぁ、おかしい。だけど、おかしい話なんだ。だってだよ、同じ市役所の人間同士、というか上司と部下という関係だ。それはわかるよね?」
「はい。でも、そういう関係があるから、変だと」
「あー、それもわかる。わかるんだけど。つまり僕がなにを言いたいかというと。市役所の上司と部下という関係の中に、いきなり北前船の時代から来た男が云々、というような話を持ち込むのって、かなり勇気がいるでしょ? そもそもそんな話、役所じゃできない。服務規程違反……いや、ちょっと違うと思うけど」
「あっ、あぁ……」
ようやく、なんとなくだが話が見えてきた。
「風見さんに、あの北浦さんという人、それからうちの親父の話をちゃんとしようと思った。ただ、どう切り出していいかわからなくて、それで事前の電話もかけにくく……」
「それでいきなり家に?」
「だからそれは」
「ごめんなさい、それはもう。話が止まっちゃいますよね」
「ありがとう、感謝する。風見さんの家に行ったら、ちょうど君が出てきた。これは好都合、声をかけようと思ったんだけど、風見さん、ひどく思いつめた顔をしてたから」
「……」
「それでもせっかく会えたし、話はしなきゃいけないと思って。だから声をかけようとしたんだけど、どうもきっかけというか。それが見つからないままで。あぁ、そうだ。今、すぐ後ろを歩いているんだから、電話をすれば……」
「それ、私が着信に気づいてたとしたら、余計、変な感じになってたと思いますよ」
「……すまない」
「もういいです。私も田辺さんには用事ができたところでした。都合がいいっていえば、かなり都合がよかったんです」
そう言って、澪は四阿の下のベンチに腰を下ろした。田辺にも座るように促す。
「田辺さん、今、北浦さんとお父さんのことって言われましたよね。それ、昨日の土崎の話を聞かれたってことです……よね?」
「うん」
田辺はその童顔には似つかわしくない、沈痛な面持ちでうなずいた。だが、それっきり彼は黙ったままだったので、澪はとうとうしびれを切らした。
「それに、北浦さんが北前船の時代から来た人だって話も、もう聞かれてるんですよね?」
「うん、聞いた。いや、それもなんども聞いてる。親父は酒を飲むたび、僕にその話をしてきたからね」
「そんなにペラペラと? お父さん、ちょっと口が軽すぎじゃないですか?」
思わず澪が詰め寄ると、田辺は肩をすくめ、
「ごめん、ごめん。悪い」
「別に田辺さんを責めているわけではなく。ただ、お父さんが」
「いや、それも許してやってくれ。僕は親父の話をまったく信じようとしなかった。だから親父もなんども繰り返した。ところが、今回は風見さんも関係してるでしょ。いや、そう聞いたから……僕としては、その時点からまだちょっと信じられないんだけど。僕も北浦さんにはなんども会ってる。どこから見ても現代人だよ。やっぱり……」
「信じられないのはわかります。でも、私、土崎の家の土蔵に入って、そこで北浦さんが船箪笥からとり出した石盤……刻磁石に触っちゃったんです。そしたら、不思議な夢、みたいなものを見ました。そこまでは本当です。その夢は北前船の時代の光景です。いえ、夢というより、本物の北前船に乗ったような体験でした。それも本当です」
「そのあたりのことも、親父から詳しく聞いた。だけどね」
「とても、信じられない話だと」
「うん。ただ、親父はいい加減なこと言うけど、そういう、なんていうかな、飛躍した話はしない方なんだ。惚けてしまう歳でもないし……だからね、つまり僕の本来の用事というのは」
「私に確かめたかったんですね。北浦さんが北前船の時代から来た人だっていう話が、本当かどうか」
「……ごめん」
「はい」と答える代わりに田辺は謝った。そんなことを言う田辺の気持ちは、澪にも少しわかる気がした。
「昨日までは正直、私も半信半疑だったんです。でも、今になって思います。私、お父さんの話を信じます。北浦さんは時間を超えてきた人なんだと思います」
「どうして……って聞いてもしかたない問題なんだよね?」
困り顔の田辺に、澪は優しく「はい」と返事をした。
「なので、私に休暇をください」
「追いかけてどうするの?」
「田辺さん、今、間、飛ばしましたね?」
「いやだって。このタイミングでそんな話……北浦さんを追いかける以外にある?」
「そうですけど」
「だったら……で、追いかけてどうするの?」
「わかりません」
澪はきっぱり答えた。
「わからないから、ちょっと追いかけてみたくなったんです。聞いてください、田辺さん」
「う、うん」
「私、自分で言うのもなんですけど、これまで冒険には縁のない人生でした。大学は東京に行って、それでも結局、地元に戻ってきたのも、そういうところが理由のひとつだった気もするわけで。なので、行きます。決めました。休暇をください。明日からでお願いします」
澪がぺこりと頭を下げると、田辺は「うーん」と唸り、
「ダメです」と、答えた。
「有休消化ですよ。ダメもいいも……」
「──意地悪言わずに、行かせてやれよ、紀生」
聞き覚えのある声に、澪は「えっ」と声を上げた。頂に続く坂道を上ってきたのは、田辺……田辺紀生の父、田辺幸成だった。
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