食事の後、新井田川の川縁に出て、少し歩いた。川面は山居倉庫の灯りが映えて、きらきらと輝いていた。
「酒田の街はこちらから見るのが正しいんですよね?」
手摺りに身を預けて川を見ながら、澪は言った。
「……そうですね」
澪の話の意図を理解して、北浦はそう答えた。彼もその視線を対岸の町並みに向ける。
「私、酒田の生まれですけど、ずっと不思議だったんです」澪は自分に言い聞かせるように、小さな、囁くような声を出した。「酒田って、駅の方はあまり栄えてないですよね。休業しているお店ばかりだし。大学生の頃、帰省で駅から降りるたび、ずっとそう思ってたんです。でも、港に近い方は商店街もあるし、流行ってるお店も多いですよね。そうそう、酒田まつりも港に近い方が中心なんですよ。
今更、なにを当たり前のことを、って言われるかもしれませんけど、それは酒田の町が港から発展した町だからなんですよね、北浦さんが教えてくれたみたいに。駅から見たら町の中心部は少し遠い、不便な作りですけど、港を中心に考えたら、必要なものがすべて手近に揃ってる、コンパクトだけど魅力的な町なんです」
澪が話すのを黙って聞いていた北浦だったが、
「……それがわかっただけでも、お話をさせてもらった甲斐がありました。いろいろな人に酒田と北前船のことをお話ししましたが、あなたのように理解を深めてくれた人は、そんなにはいなかった」
「あ、ありがとうございます」
「確かに駅は酒田の町がこの形を作ってからできたものです」
「ですよね」
「ただ、駅に……鉄道に対応できなかったのは、いいことではないですよ。北前船にしても、当時は最新のインフラだったわけですから。新しいものに対応していかなければ、その行く末は決まってしまいます」
「そうです……よね」
シャッターの降りた店が並ぶ駅前の光景を思い出して、澪はうなずいた。
「でも、駅前も再開発の計画はありますし、まだ生まれ変わっていく余地はあるはずなんです」
「そうですね」
澪の言葉に北浦はうなずき、
「過去の歴史を大切にするのも大切です。でも、町は人が生きるところです。だから時には過去を忘れてでも……」
「……」
「いえ、なんでもありません。いや、私にそんなことを言う資格はないです」
北浦がなにを言おうとしていたのか、澪は気になったが……。
「風見さん、北前船のことですけど」
「……」
──話題を変えられてしまった。
「風見さんは市役所の方ですから、まずは酒田と北前船の関わりを中心にお話ししてきました。でも、北前船のことを知ろうと思ったら、当然、酒田のことを知るだけでは足りません。北海道は函館・松前から日本海側の各都市、そして瀬戸内から大阪に至る、様々な土地が関わっています」
「はい」
澪は姿勢を正し、北浦に話に耳を傾けた。
「今回の日本遺産認定に関わった自治体……松前、函館、鰺ヶ沢、深浦、秋田土崎、酒田、新潟、長岡、敦賀、南越前、それに加賀……同じく北前船に関わってるとはいっても、それぞれに役割が違います。
船主集落、寄港地、風待ち港、いろいろな町があって、辿ってきた歴史も違うんです」
「わかりました、北浦さん。私、北前船のこと、もっと勉強します。可能なら、酒田以外の町にも……でも、北浦さん」
「はい」
「私、その前に北浦さんのことをもう少し知りたいです」
──言ってしまった。
だが、いちど口にした以上、中途半端なところでは引き返せない。
「北浦さん、酒田の生まれなんですよね? どのあたりなんですか? 市内ですか? それとも近くの……」
「私は……」
澪の話を遮るように、北浦が口を開いた。
「酒田の生まれです。そして酒田で育ちました。いろいろな土地を巡りましたが、それでも酒田が私の町です。
──けれど」
「……」
澪は深く後悔していた。
触れてはいけないところに触れてしまった……。北浦の表情からそれがわかった。尋ねる前からそれはわかっていたはずなのに、それでも勝手に口が動いて……。
「風見さん、私は……」
「北浦さん!」
北浦が口を開きかけたところで、暗がりからその名を呼ぶ声があった。澪が振り向くと、そこには小柄な老人が立っていた。
「すいませんね、北浦さん。ええと……こんな綺麗なお嬢さんとおふたりのところを」
そう言って、老人はにこりと笑った。
「……あっ」
白髪頭にハンチングキャップの痩せた小柄な老人。
──『北の海のことを知ろうとするなら覚悟が必要ですよ』
昨日、市立資料館を立ち去る際、澪が出会った男だった。
「……?」
……それはいいとして、老人の皺だらけだが不思議と子どもっぽい顔、その声、喋り方……改めて見て、聞くと、どうにも覚えがあった。
「はは、似てますか?」
老人の急な質問に、澪は首を傾げた。
「私、田辺幸成と申します。この酒田でずっと不動産業を営んでおります」
「田辺さん……え? それじゃああの田辺課長の……」
年の割には童顔なところ、その声の様子、言われてみれば、観光振興課の上司、田辺にそっくりだ。
「はい、田辺紀生は私の息子です。いつもお世話になっております」
ぺこりと頭を下げた幸成に、澪も慌ててお辞儀をした。
「とんでもありません。観光振興課に配属されて間もないもので、田辺さんにはいつもご指導頂いて……」
「いやいや、うちの息子、歳ばっかりとって、一向に頼りないままでしょ。お世辞はいいですよ」
「いえ、そんな……」
「あっ、そうだ」幸成は自分の額をぱんっと叩いた。「北浦さんに急ぎの用があって駆けつけてきたのに、お喋りが過ぎました。北浦さん、探しもの、とうとう見つかりましたよ」
「……」
その言葉を聞いた途端、北浦の肩がびくりと震えた。
「見つかったというの……あれ、ですか?」
「はい」
幸成は深くうなずき、
「セイシンマルノフナダンス、です」
──セイシンマルノフナダンス。
まるでそれが魔法の呪文だったかのように、北浦の様子が劇的に変わった。突然、幸成の肩を乱暴につかむと、激しく揺すった。
「本当ですか? 本当なんですか?」
これまでの温厚な態度からは想像もできない。幸成に詰め寄る姿は、どこか獣じみた迫力さえあった。
「落ち着いて北浦さん、本当ですよ」幸成は笑みを絶やさず答えた。「セイシンマルノフナダンスは秋田の土崎にあります。もう譲ってもらえるように話もつけてありますよ」
「本当に……田辺さん……ありがとうございました……」
北浦は幸成の痩せた身体にすがっていたが、やがて堪えきれず、その膝が崩れた。
そして、誰の目を憚ることもなく、子どものように泣き始めた。その声が新井田川の暗い水面に反射して、澪の耳に幾重にも響いて聞こえた。
その週の土曜日、澪は車を出し、北浦、そして幸成とともに、秋田県の土崎に向かうことになった。そこで船箪笥を引き取るためにである。
「私、フナダンスってなんのことだかわからなくて」
運転席で澪が笑うと、北浦は苦笑して、
「そういえば、あの時はまだ船箪笥のことを教えてなかったですね」
船箪笥
船箪笥。
文字の通りなら、船の箪笥、確かに船乗りたちの服をしまうこともあったが、それは半櫃(はんがい)と呼ばれ、船箪笥という時は主に、北前船の商売に必要な現金、印鑑、帳簿などをしまっておいた懸硯(かけすずり)や帳箱のことを指す。つまりは船の貴重品を収めていた金庫である。
船箪笥は外はケヤキ材、内部は桐材ででてきており、丈夫な金具で補強されている。水に浸かると内部の桐材が膨張し、機密性を保ったまま浮く構造になっていた。万が一の遭難の際も回収できるようになっているのだ。そして隠し扉や工夫された鍵穴等、盗難防止のために様々な仕掛けがされている。
北浦の話によれば、江戸期のもので現存しているものも多く、酒田の資料館をはじめ、各地の施設にも収蔵されているという。
「本当にすいませんでした、あの時はお恥ずかしいところを見せてしまって」
「星辰丸の船箪笥は貴重なんですよ」
北浦が頭を下げていると、後部座席の幸成が助け船を出してきた。
「北浦さん、前からその船箪笥のことを探しておられて。研究にどうしても必要だということで」
「そうだったんですね。そうだ、田辺さん。息子さんのことですけど」
「あぁ、童顔の馬鹿息子」
「そんな、ひどいですよ……童顔は童顔だと思いますけど。あ、それで田辺さん、息子さんの方ですけど、田辺さんと一緒に土崎に行って、船箪笥を引きとるって話をしたんです。一応、断っておかないのも変だと思って」
「あぁ、そりゃ助かります。もう息子とは所帯も別ですからね」
「そしたら、あぁ、父さんのことを頼むって、なんだか妙にあっさりした反応で」
「あの倅は薄情なヤツなんで、父親になんか興味がないんですよ。風見さんみたいに、僕たちのためにわざわざ車を出してくれるような、そんな親切心の塊みたいなお嬢さんとはわけが違う」
「いえ、そんな……」
息子の方も少々調子のいいところはあるが、父親はそれに輪をかけて軽薄だ。話しているとどうも調子が狂ってしまう。
澪はハンドルを握りながら、ちらちらと北浦の横顔を伺っていた。
──この前の夜、新井田川の川縁で、澪は北浦の正体に迫ろうとした。だが、それは幸成の闖入で中途半端なところで終わってしまった。北浦に会うのは、あの夜、あのまま別れて以来だ。その後、北前船の勉強に必要な書籍について、なんどかメールのやりとりをしてはいたが……。
なんど見ても、北浦の考えていることはわからない。
澪の目にはあの夜、「セイシンマルノフナダンス」が見つかったと聞いて、嬉し涙を流していた北浦の姿が焼きついている。
あの喜び方……そもそも、あれを喜び、といっていいものか……とにかく、普通ではなかった。いくら研究上貴重なものだったとしても、あれほど喜ぶだろうか。特に、いつもは冷静で温厚なあの北浦が……。
そういえば、田辺の父、幸成と北浦の関係もよくわからない。幸成は本業である不動産業は半ば引退していた。趣味である北前船のことや酒田の歴史をひもとく生活をしていて、資料館のボランティアガイドなども務めているという。その縁で北浦と知り合い、仲良くなったと本人たちは語っていたが……。
「もうすぐ土崎駅です」
カーナビの画面を確認して、澪は北浦たちに伝えた。JRの土崎駅前に車を停め、近くの店で昼食を済ませたが、それでも約束の時間までには、まだかなりあった。
「せっかくですから、勉強しましょう」
北浦の一言で、澪たちは土崎港を見学することになった。観光振興課の仕事で北前船のことを学ぶ身である澪からしてみれば、当然、断る理由はなかった。
一行は土崎駅を後にして、そこから続く郷社通りを進んでいった。
「ここ、土崎港は雄物川の河口に作られた、とても歴史の古い港です。平安の頃から蝦夷討伐の補給地として使われたことが始まりで、江戸時代は久保田藩の藩港でした。特に西廻り航路が確立されてからは、大坂行きの米の扱いが爆発的に増えました。北前船の寄港地として、大変栄えたんですね。ただ、酒田と違って、港まわりにはあまり当時の痕跡は残されていません、第二次世界大戦の時にかなり空襲を受けたそうなので。でも……」
澪たちは交差点にぶつかり、そこを北浦の先導で左に曲がった。
「ここって……」
標識の表示を見て、澪は声を上げた。
──「本町通り」。
酒田の市役所や旧鐙屋がある、廻船商人の屋敷が建ち並んでいた、かつてのメインストリート。それと同じ名前の通りだった。
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