深浦から鰺ヶ沢へはそう遠くない。
五能線で一時間弱ほどで着いてしまう。
──鰺ヶ沢の駅は海のすぐ近くにあった。海岸に出てみると、小さな漁港と海水浴場になっていたが、この季節、ほとんど人はいなかった。
深浦で話を聞いていたように、この鰺ヶ沢も北前船の時代は津軽藩の御用湊として大いに栄えていたところだ。藩米の集積所として機能し、大坂などへ運ばれていったのだ。十八世紀半ば宝暦年間には、十二軒の廻船問屋が建ち並ぶほどだったという。だが、今は商業港ではなく、完全に漁港になっている。明治の半ばに北前船が衰退した後、昭和初期から第二次大戦後にかけて湾内を埋め立て整備をし、漁港として生まれ変わったのだ。
そうした工事によって海岸線、海沿いの景観は変わってしまったが、町並みにあまり変化はないという。
「まずはちょっと町をぶらぶらしてみるかね」
紀生の提案で、澪たちは現在の地図、そして港町として賑わっていた時代の絵地図を手に、町歩きをすることにした。
「町の西側にお寺が集まってるんですね。本町というところが町の中心で……あぁ、酒田と同じなんですね。御仮屋っていう町奉行所に鰺ヶ沢総鎮守の白八幡宮、それに廻船問屋が集まってる。この米町、塩町っていうのが隣接した商人たちの町なんですね」
絵地図と実際の町並みを見ながら歩いて、澪は少し興奮気味だった。
「浜町、釣町、漁師町か……漁師の町があるところが違うけど、なるほど酒田と同じ、酒田よりもまたコンパクトだけど、港町の基本構成要素っていうのを備えてるんだな」紀生が感心して呟いた。「漁師町の裏には新地町っていう遊郭まであったのか」
「日和山もあったみたいですよ。ただ、今だと海は見えなくて、標識が残ってるだけみたいですけど……あっ」
絵地図を見ていた澪が急に足を止めたので、後ろをついていた紀生が、その背中にぶつかりそうになった。
「なんだい、風見さん」
「いえ、この絵地図に添えられてるテキストが……今、昔の建物が残っていない理由として、大火に焼かれたからって書いてあって」
「あぁ……」
「ここもやっぱり、火災の被害を受けてたんですね……」
これまで訪れた港町もそうだが、酒田と同じで大火に見舞われたという話を聞くと、どうしても他人事とは思えなくなっていた。
町の西側の寺町を見た後、ふたりは石段を上り、白八幡宮を訪れた。そこは湾内を一望できる高台にあった。
白八幡宮
澪たちは本殿を囲む玉垣の前に設けられた案内板を見た。
「ふんふん。この玉垣は御影石か。山口県の下関産か」
澪も呟いた紀生の横に肩を並べ、
「長州赤間関の有光重兵衛が手がけたって書いてありますから、下関で造られてから、ここまで運ばれてきたんですかね?」
御影石の玉垣が建てられたのは文化十三年、一八一六年のこと、大坂の商人・橘屋四郎兵衛らを発起人とし、各地の商人たちが寄進したものと伝えられている。
「あぁ、円覚寺と同じ年の創建なんですね」
と、パンフレットを読んでいた澪が声を上げた。
白八幡宮は深浦の円覚寺と同年、大同二年、西暦八○七年、これも同じ坂上田村麻呂によって蝦夷降伏祈願所として祠を建てたことが、その始まりと言われている。
後に康元元年、一二五六年に執権・北条時頼によって再建され、それから下ること三百五十年後の慶長八年、一六○三年、津軽藩藩祖である津軽為信によって社殿が造営され、鰺ヶ沢総鎮守と定められるに至った。
「じゃあ、あの円覚寺とは兄弟みたいなもんなんだなぁ。しかも千二百年も昔のことかぁ。いや、なんか壮大過ぎて笑っちゃうね」
海を眺めながら紀生はなんどもうなずいた。
今は町は静かだが、三百年以上の歴史があり、四年にいちど催される伝統行事、白八幡宮大祭の時は、本町を中心に御神輿渡御行列が練り歩き、大変賑わうという。
「その御神輿渡御行列って、京都の『時代祭』『祇園祭』の流れを汲むものなんですって。だから『津軽の京まつり』とも言われてるとか」
観光案内を読んだ澪が言うと紀生は、
「なるほど、北前船で上方との交流があった証拠ってことか」
「御神輿渡御行列は二基の御神輿を中心に、神職、御神馬、往事の装束を身につけた時代行列で、その後に山車が続くんですけど」
澪はパンフレットの写真を見せた。そこには大きな人形が載せられた山車の写真があった。
「なにかに似てません?」
紀生はしばらく考えて、
「あ、ねぶた、か」
「そうなんです。山車の人形の中には、祇園祭のために作られたものも混ざったりしているようで、北前船のお陰で、京都と津軽の文化が融合した、その象徴みたいになってるんです」
「なるほどねー」
「私も勉強を始めたばかりだから、まだあんまり詳しくはないんですけど、お祭とか文化とか、商品じゃないけど、北前船が様々な土地を繋いだものは他にもあって。歌もそうなんですよ。船乗りが各地の港に上陸して、地元の歌を伝える。それが少しずつ形を変えて歌い継がれる。だから、とても離れた土地なのに、似た歌が残っていたり」
「歌う北前船か」紀生の顔が綻んだ。「なんかのパンフレットに使えるかな」
「田辺さん、たまにロマンチックなこと言いますよね。お父さんに似てます」
「えー、ないない。それはないから。……うん、ないよ」
「はいはい、わかりました」
しつこく否定する紀生をなだめつつ、澪は神社に収蔵されている船絵馬の見学をさせてもらうことにした。
案内の説明によると宝暦二年、一七五二年から明治中期までの船絵馬が奉納されているというが、中でも北陸の船主の者が多いという。
「深浦だと福井の言葉の流入があったって話がありましたけど。やはりこのあたりは、北陸地方との縁は深いんですね」
飾られた船絵馬の中でも一際目立っていたのは、慶応元年に大津屋が奉納した、千石積みの藩御手船(藩所有船)三隻が描かれたもので、往時の鰺ヶ沢の繁栄を如実に示していた。そして、白山媛神社船絵馬収蔵庫でも見た、明治期の船絵馬もあった。あちらは汽船だったが、こちらは洋式帆船だった。
──白八幡宮を後にした澪と紀生は本町のメインストリートを歩いて駅に戻ることにした。片道一車線ずつの狭い道の両側に、民家の間に、クリーニング屋、写真屋、ハンコ屋といった商店がぼちぼち顔を覗かせていた。道行く人はほとんど見かけない。
「酒田も人様のことはあれこれ言えないけど、やっぱり普段は寂しいなぁ」
暗い顔になった紀生に澪は、
「でも、御神輿渡御行列の時はけっこうな人出だそうですよ」
「うちの酒田まつりもそうだよ。それに合わせて帰省してくる人もいるけど、それにしても、いったいどこから人が湧いてくるのかって思うもん。まつりの時だけ、違う世界になっちゃうみたいでしょう」
「市役所の人間がそれ言います?」
「いや、ホントそうなんだけどね」
「でも、酒田まつりも、もうすぐですね」
「あー、それ言わないで。今から気が重い」
紀生は大袈裟に頭を抱えた。
酒田まつりは毎年、五月中旬に開催される。庄内三大まつりのひとつに数えられ、上下日枝神社の例大祭「山王まつり」として慶長十四年、一六〇九年から始まり、いちども欠かすことなく続いている祭だ。昭和五十四年からは酒田大火からの復興を記念して「酒田まつり」と名を改めたが、名前の通り、酒田最大のイベントとなっている。そのため、まつり期間は市役所総出の忙しさとなる。特に観光振興課は毎年、大変なことになる。
──澪と紀生はそれきり黙り込んで、肩を並べて鰺ヶ沢駅に続く道を歩いた。もう四月だが、肌寒い一日で、海から吹き寄せる風にふたりは身を震わせた。
深浦、鰺ヶ沢での取材は予想以上に時間がかかってしまった。本来ならこの日のうちに函館に移動するつもりだったが、青森まで出てそこで宿をとることになった。
翌日、午前中に津軽海峡フェリーで函館に移動することになっていたが、紀生の発案でその出発を少し遅らせ、ふたりは青森市内で一箇所、取材見学をすることになった。
「こう見えてもね、僕もそれなりの伝手というものがあってね」
ホテルのレストランで自慢げに語る紀生に、澪はしかたなく小さく拍手をした。
「感謝してますって。私も是非寄ってみたいと思ってたんですけど、急なことだから先方の都合がつかないだろうって諦めてたんです」
──澪たちが向かったのは青森市内、駅近くのホテルからタクシーで十五分ばかりのところだった。
港沿いの道を行くと、小さな造船所があった。青森市内で残った唯一の造船所だという。
造船所前のオフィスを訪ねると、そこには青森県「野辺地町」の名前入りジャンパーを来た男が立っていた。名刺交換をして挨拶を終える。野辺地町の職員は桜井といった。
──澪が見たかったのは「みちのく丸」だった。
「みちのく丸」とは北前船復元船で、かつての和船の造船技術を後世に伝えるためと、平成十七年に建造された船だった。いわゆる千石船クラスで、全長は三十二メートル、帆柱の高さも三十メートル近いという。そして、帆船として自走も可能だ。
現在は野辺地町が所有しているが、痛みが激しくなったため、補修にこの造船所のドックに入っているのだという。
「じゃあそろそろご案内しましょうか。ドックはこのすぐ裏手になります……?」
桜井が首を傾げた。その意味がわからず、澪は戸惑ったが、
「風見さん、目、キラキラさせ過ぎ。今から初恋の人と再会しますぅ、って感じだよ」
「え? そうですか? 私、そんな顔してますか?」
紀生に賛同して、桜井も笑ってうなずいた。
「まぁいいですけど……」
オフィスのある建物を出て、駐車場を回っていく。正面は日本海になっていて、揺れる水面が朝日を反射してキラキラと輝いていた。
その海の間近には、整備のためだろうか、陸に上げられた小型漁船が何隻も並んでいた。
「……?」
建物の陰から突き出している、太く茶色い柱のようなものが見えた。
──ひょっとして帆柱?
そう思ったものの、澪は即座に否定した。いくらなんでも高すぎる。まだ少し距離があるのに、見上げるほどだ。
あんなに高いわけは……。
気づいた時は早足……否、紀生はともかく会ったばかりの桜井の目も忘れて、澪は駆け出していた。
「……帆柱だ!」
建物の角を曲がったところに、それはあった。ドック入りという言葉から、てっきり造船所の建物の中に収められているものだと思い込んでいたが、それは外に置かれていた。
──みちのく丸、だ。
その実物を目にして、その理由がわかった気がする。
三十メートル弱の帆柱、実際に目の当たりにすると、これほど高さがあるものなのか。これでは造船所の天井でもつかえてしまうかもしれない。
帆柱は高さだけでなく、その太さも圧倒的だった。ここ最近は船絵馬や資料で散々見ていたが、やはり実物大のものとではイメージが違う。両腕でも抱えきれなさそうだ。否、大人ふたりでも抱えきれるかどうか。今は当然、下ろされているが、目一杯、帆を広げたとしたら、どれほどの迫力があるのだろう。
澪が呆然と帆柱を見上げていると、紀生と桜井がようやく追いついてきた。
「すっげー」
紀生が子どものような声を上げた。
「いや、すごいわ、これ。いやいやいや、すごいすごい」
声だけではなく、語彙も子どものようになっていた。
だが、澪にもその感覚はよくわかった。まずは帆柱に目を奪われてしまったが、船本体も当然、巨大だった。足場が組まれ、地上から少し浮いた形で鎮座しているが、その状態で甲板の高さは……建物の三階……それより少し低いくらいか。高さだけではなく、貨物船であるが故に、船体も太くボリュームがあり、迫力があった。陸側に向けられている舵も大きい。畳何枚分あるのだろう。
横を見てみると、少し離れたところで、漁船……ではなく、なにに使うものなのか、作業用の船が新造されているところだった。全長はみちのく丸と同じくらい、シルエットはもっとすっきりしているが、当然ながら木製ではなく金属製だ。
「現代の船にも負けてないですよ、存在感では……」
気づけばそんなことを呟いていた。
これだけのものを、正確な図面もないまま、人の手だけで作り上げる当時の船大工たちの力は、あらためて考えても凄まじいものがある。ただ溜息しか出なかった。
「あの……中もご覧になりますか?」
「えっ!」
桜井に声をかけられ、澪は驚いた。
「中に……入れるんですか?」
「はい。ただ、今は補修中なのでそのための道具なんかが入っていて、当時の様子とは違うといいますか、雰囲気が変わってしまってるんですが……」
「大丈夫です! それでもいいです。是非、見学させてください」
みちのく丸の横には甲板に上がるための、仮設の階段が用意されていた。やはり、三階までは至らなかったが、二階半くらいの高さはある。
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