市立函館博物館がある函館公園は、宝来町から歩いてもすぐの距離だった。だが、澪たちは昼食をとるため、いちど函館駅の方まで戻り、改めて市電に乗り、最寄りの青柳町の電停まで移動した。
函館博物館は静かな公園を抜けた先にあった。
市立函館博物館
──函館博物館の歴史は長い。
遡れば明治十二年、一八七九年、現在の地に開拓使函館仮博物場として開場されたのが、その始まりだ。近代国家には教育施設が必要という、開拓使の御雇教師頭取兼開拓顧問ホーレス・ケプロンの助言を受けてのことである。これは明治八年、一八七五年の東京博物館、開拓使北海道物産縦覧所、明治十年、一八七七年の札幌偕楽園博物場の開場に続く、地方博物館の先駆けとなるものだった。昭和四十一年、一九六六年に現在のような市立の総合博物館となった。
澪たちを迎え入れたのは、少しひんやりとした空気だった。紀生が受付で来訪の趣旨を伝えると、すぐに片桐が奥からやって来た。
「これは遠いところを」
笑顔が優しい男だった。
営業用の作り笑いではなく、その顔から自然な愛嬌が滲み出ていた。澪たちの表情も自然と柔らかになる。
歳の頃は北浦と同世代、三十を少し超えたくらいだろう。
「酒田市役所観光振興課の風見澪と申します」
「同じく、田辺紀生といいます」
「はじめまして、こちらの博物館の学芸員の片桐啓太です。よろしくお願いします」
とりあえずの名刺交換を済ませると、
「では、奥へ。お客様を迎えるようにはできていなくて恐縮なんですが」
片桐に案内され、澪と紀生は博物館の一階展示ホールを抜け、奥の広い部屋に通された。片桐の説明によると、会議や勉強会に使われる場所らしい。
いちど退室した片桐が、人数分のペットボトルのお茶を持って戻ってきた。
「ご存じとは思いますが、このたび、北前船が日本遺産に選定されまして」澪が代表して話すことになった。「それを申請いたしました十一自治体のひとつとして、私たち酒田も、もっと北前船をアピールしていこうと。そのため、まず観光振興課の私たちが北前船のことを勉強しなくては、という次第で。それで様々な場所を回っています」
「そうなんですね。ちなみに今回の十一自治体というと、確か……」
「敦賀、福井南越前町河野、石川加賀橋立、長岡寺泊、新潟、山形酒田、秋田、青森深浦、同じく青森鰺ヶ沢、松前、そしてこの函館です。青森では復元船の『みちのく丸』も見学してきました」
「おー、それは凄い。というか羨ましいですね。今、出たところは僕もいちどは回っていますけど、そう長い休暇はもらえないですからね。どうしても駆け足でした。町を含めて、ゆっくり回り直したいと思っているんですが」
「いえ、私たちこそ本当に駆け足の取材で。ですので……」
澪は迷った。だが、すぐに決断した。
「北浦さんのことはきちんと捜せませんでした」
北浦の名前が出た途端、片桐の表情が一瞬、強ばったのを、澪は見逃さなかった。
「北浦さんのことは僕も心配してます。ただ、田辺さん……こちらのお父さんの方の田辺さんからお電話いただきましたけど。僕、それについては本当にお話しできることがなくて」
片桐は穏やかな口調でそう答えた。
「片桐さん」澪も静かに呼びかけた。「北浦さん、やっぱり、ここに来ましたよね?」
「ちょっと風見さん。それは……」
紀生が諫めようとしたが、結局、言葉を呑み込んでしまった。
「片桐さん、今、お困りでしたよね。北浦さんのことは話せないけど、嘘もつけない。だから、とても言葉を選ばれて」
「……」
「答えていただけないなら、それでもいいです。でも、私の話、聞いてください」
「……はい」
と、片桐は深くうなずいた。
「かなり長くなってしまうと思いますけど、よろしいですか?」
「いいですよ。僕も北浦さんのお話は伺いたいです。そのために、あなた方とお会いすることにしたんですから」
「……ありがとうございます」
──澪は片桐にこれまでのこと、北浦との繋がりを話した。
酒田の資料館で初めて出会ったこと。
北浦に導かれ、酒田の街を巡り、北前船について多くを学んだ。
そして、土崎の土蔵で船箪笥から出てきた、刻磁石の片割れのこと。それに触れた自分は時折、不思議なビジョンを見るようになったこと。
そして田辺幸成から、北浦が北前船の時代から来た男であると聞かされたこと。
「そして北浦さんは、私たちの前から消えてしまいました。刻磁石の〝針〟の欠片を求めて、それが隠された船箪笥を探しにいったんです。私はこちらの田辺に願い出て、北前船の取材の傍ら、北浦さんを捜すことにしました」
話をしているうちに、この一週間あまりの旅の足跡が、鮮やかな光景として澪の脳裏に甦ってきた。
「たくさんの場所を回りました。先ほどもお伝えしましたけど、秋田の土崎、敦賀、福井の南越前町、石川加賀の橋立、長岡の寺泊、新潟、青森の鰺ヶ沢と深浦、それに昨日は松前にも行きました。今日の午前中は函館も見学しました。
それでやっとわかったんです。
私自身、山形の酒田の生まれなんですけど、日本海側の街なんてどこも同じだと思ってたんです……寂しくて人があまりいなくて……でも、昔はそうじゃなかったんですね。北前船で栄えていた。土地によって違いますけどその名残はどの街にもあって、今、流れている時間の中に、ひっそりとですけど、でも確実に息づいています。港町は風の街だから、火事の被害を受けたところも多いです。でも、建物を焼かれても、町の形が昔を覚えている。だから、町の記憶が失われることはない。私、そんなことも知らなかったんです。
──過去があって、今がある。
そして、今も時間は流れ続けてます。だから、どの街も未来のことはわからない。自分の故郷は酒田ですけど、酒田だってそうです。まだどんな未来が待っているかわからないんです。
自分が住んでるくせに、冬の暗い日本海のことばかり考えてました。夏の日本海の静かな、でも眩しい美しさ、それを忘れていました。
……私、できたら、北浦さんとそんな話をしたいんです。北浦さんの話を、また聞いてみたいんです」
感情の堰を切ったように一気に話す澪のことを、片桐は黙って見つめていた。
「……風見さん」
気づけば、片桐は微笑んでいた。
「北前船のことを知るというのは……歴史を学ぶというのは、つまり、そういうことだと僕も思います。
単純なことです。過去と今は繋がっている。そして今と未来も繋がっている」
そう言ってまた微笑んだ片桐だったが、彼は少し言いにくそうに口を開いた。
「風見さん。初対面の方にこういうことを、いきなりお尋ねするのも無礼だとは思うのですが。それに、今のお話を台無しにするようで心苦しいのですが……つまり、その……あなたは、北浦さんのことを愛しておられるのですか?」
「……」
「すいません。失礼しました。今の言葉は忘れてください」
「いえ、答えます」
「は、はい」
「少し勘違いしそうになったこともあります。あの、先ほどもお話ししたように、心にメッセージが聞こえてきていたんです。たぶん、私が刻磁石を触ってしまったからだと思うんですけど。
──『おまえに会いたい』って。
最初、『おまえ』の部分が聞こえなくて、ただただ『会いたい』って言葉だけが頭に浮かんでたんです。だから、てっきり、自分でも知らないうちに、北浦さんにすごく熱を上げて、会いたい会いたいって思うようになったのかって。でも、それは間違いでした」
「……」
「『おまえに会いたい』っていうのは北浦さんの言葉だったんです。しばらくしたら、ちゃんと北浦さんの声で聞こえるようになりましたから。それもあって少し冷静になれたというか。
私、北浦さんとは数日、行動をともにしただけなんです。いえ、それだって恋に落ちるには十分かもしれませんけど、私は映画のヒロインじゃありません。そこまで情熱的じゃないんです……残念なことに。北浦さんへの興味は恋愛感情じゃないと思います。私が今、恋をしているのだとしたら、それは北前船にだと思います」
「北前船に、恋、ですか」
片桐は笑い、
「そっちの方が映画のヒロインの台詞みたいですよ。面白いですね、風見さんは」
「……え? 私、そんなに変なこと言ってしまいました?」
「どうですか、片桐さん」
それまで黙っていた紀生が横から口を挟んだ。
「うちの部下は頼もしいでしょ?」
「……かもしれないですね」
「だったらどうです? この風見に、北浦さんのことで知ってること、話してもらえませんか?」
「よくわからない要求ですね」
片桐はまた笑い、
「でも、いいですよ。
──田辺さんのお父さんがご存知のように、北浦さんがこの函館を訪ねて以来、僕たちは意気投合しました。彼が酒田に戻った後も、頻繁にメールのやりとりはしていました。ただ……北前船の時代から来た、という話までは聞いていませんでした。いや、最近になって聞いたんです。頼まれ事をされた時に」
──先日、北浦から片桐のところに、メールである依頼が来た。船箪笥の一覧が書かれており、それが現在、どこの資料館、博物館、ないしは個人所有なのか、その在処を教えて欲しいという内容だった。
やはり……と思いながら、澪は片桐に尋ねた。
「それで片桐さんは北浦さんのお手伝いをしたんですね?」
「そうです」
「あの、北浦さんはもう、刻磁石の針の欠片、それをすべて集められたんでしょうか?」
「それは……」
「……」
「僕の口からは言えないですよ。北浦さん、本人の口から聞いてください。
──彼は昨日から、ここに来ています」
「あ、あの……」
突然の知らせに、澪は逆に戸惑ってしまった。
「いいんですか、それ、教えてしまって、私たちに」
「北浦さんから任せられてたんですよ。僕の判断でいいって。彼は今、この博物館の裏にいます。風見さん、行ってあげてください」
「は、はい……」
澪は紀生の顔を見た。
「いいよ、風見さん。せっかくなんだ、ひとりで行ってきて。僕もせっかくだ、博物館の見学をしてるから」
「わかりました。それじゃあ行ってきます」
「風見さん」
立ち上がった澪のことを、片桐が呼び止めた。
「ちょっと待ってください……あなたに渡しておきたいものがあるんです」
片桐の話通り、澪が博物館の裏手に回ってみると、そこに建物の壁に背中を預ける北浦がいた。
白いシャツにグレーのジャケットを羽織り、体つきは逞しいが、顔つきは柔和だ。物静かで優しそうな人物。酒田の資料館で初めて出会った時と、印象は変わらない。とても荒海を乗り越えてきた男とは思えなかった。
「……北浦さん」
「……」
北浦は黙って澪の顔を見た。
澪もまた、なんと言っていいのかわからなくなった。北浦に会えたなら、まずはなにを言おう。そんなシミュレーションはずいぶんしたはずなのに、いざ本人の顔を見ると、頭が真っ白になって、すべてを忘れていた。なにも言葉が出てこない。
「……北浦さん」
結局、名前を繰り返し呼ぶことしかできなかった。
そんな澪に対して北浦は……。
「こんにちは」
「……」
散歩の途中、偶然出くわしたような、そんな自然体の挨拶だった。
「……北浦さん。北浦さんはホントに……別に感動の再会みたいなことは期待してなかったですけど……でも……あははっ」
後は笑ってしまって、結局、それ以上はなにも言葉は出てこなかった。そんな彼女のことを、北浦は不思議そうな顔をして、ただずっと見守っていた。
「……風見さん。北前船のことをずっと勉強していたんですね」
「はい……え? どうしてそれを?」
「田辺さん……幸成さんから伺いました」
「いつ、ですか?」
「ついさっきです。僕の方から電話したんですよ」
北浦の発したその言葉を、澪は慎重に受け止めた。
「つまり、それって……北浦さんの旅が終わった、ということですか?」
「いえ」北浦は首を横に振った。「むしろ、その逆です。……風見さん、せっかくです。少し歩きながら話をしませんか?」
澪と北浦は博物館奥の会議室に顔を出した。片桐だけでなく、紀生も戻ってお茶を飲んでいた。
「おひさしぶりですね、北浦さん」
紀生が声をかけると、
「ご心配おかけしました」
と、北浦は深く頭を下げた。
「田辺さん、私たち少し外に出てきます。なにかあったら電話をください」
そう断りを入れると、博物館を出た。
「海の方へ行ってみましょう。歩きますが、大丈夫ですか?」
「はい」と答えると、澪は北浦についていった。
博物館を出て、ふたりは公園を抜けた。そして高田屋嘉兵衛屋敷跡の石碑の脇を過ぎていく。
──その近くの高田屋嘉兵衛の像の前で北浦は足を止めた。
彼は黙って銅像を見上げた。
函館山と青い空を背にして、北前船の英雄もまた、北浦のことを無言で見下ろしている。
「知っているんですか、高田屋嘉兵衛のこと?」
澪の質問に北浦は深くうなずいて答えた。
「北前船の船主仲間……なんですか?」
「仲間なんて畏れ多い。僕にとっては大恩人ですよ。星辰丸を手に入れる時もとても助けてもらいました。いや、そもそも、です。僕が北前船の船主を目指したきっかけを作ってくれたのも、嘉兵衛さんでした。
子どもの頃、僕は酒田近郊の農村で暮らしていました。たまに遣いで湊まで行ってたんですが、ある時、嘉兵衛さんの船を見たんです。実に立派だったな、あれは……。ひと目見てね、もう夢中になってしまった。恋ですよ、あれは。僕もあんな船を自分のものにしたい。それで広い海に出てみたい、そう決めてしまったんです。でも……」
「でも?」
「嘉兵衛さんには、なにひとつ恩返しができないままでした。それどころか、あの人を裏切るような形で、僕はこの時代に来てしまった。嘉兵衛さんのことは本も資料もたくさん残っていますからね、あの人がその後、どのような人生を送ったのか、それを知ることはできました。でも、不思議な気分でしたよ。僕がまだ知らなかった嘉兵衛さんの未来が、すでに確定した過去として書物に記されていた。風見さんもご存じですよね。嘉兵衛さんはロシアに捕らえられるなど、大変な目にも遭いました。ただ、それでも晩年は生まれ故郷で静かに暮らすことができた。それを知ることができただけでも、救われた気がしました」
そう言うと、北浦は高田屋嘉兵衛像に背を向け、ゆっくり歩き出した。
「北浦さんは昔……北前船の時代、よくこの街に来ていたんですか?」
「ええ。でも、蝦夷地は遠いですからね、そう回数は……でも、来るたびにそれなりの期間は滞在しましたから、馴染みはあった土地です。でも」
ふたりは函館市電の電停、十字街のあたりまで来ていた。
「今はもう、その頃とは全然違いますか?」
澪に尋ねられ、北浦は苦笑いした。
「全然違います。港の様子もまったく違う。かなり埋め立てられてしまってますから。町並みもそうです。だから、変わらないのは函館山くらいのものです」
海……港の方を目指して、更にふたりは歩いていった。やがて函館の観光名所のひとつ、「金森赤レンガ倉庫」が見えてきた。
歩いていても澪に実感はなかったが、ここまで聞いてきた話からすれば、このあたりは北浦が知っていた時代は、まだ海の中のはずだ。埋め立てられたのはずっと後だろう。
赤レンガ倉庫
──金森赤レンガ倉庫。
明治二年、一八六九年、大分出身の商人・渡邉熊四郎がこの地に金森森屋洋物店を出店したのが、その起源になっている。現在のようなお土産物店などが入ったショッピングモールやレストランなどがオープンしたのが、昭和六十三年、一九八八年、今から三十年ほど前のことである。
函館の街はどこも観光客で賑わっているが、ここもその例に漏れなかった。それに加え、散歩の途中という風情の地元民たちに混じって、ふたりは港まで歩いた。
港部分もレストランなどが並び、きれいに整備されていた。大小のヨットやクルーザーが係留されている。
「この赤レンガ倉庫も古くて風情がありますけど、北浦さんの時代よりもずっと後のものだから、ノスタルジーみたいなものは感じないんですよね?」
「そうですね。でも、今の函館の街も懐かしいですよ。不思議と懐かしく感じるんです。現代に来て、初めてここに来た時もそう思いました」
「……どうしてです?」
北浦は岸壁に立って、海を見た。天気もよく、波は静かだった。
「どうしてですかね? 自分でもわからないですけど……あの海だけは昔と同じですから」
北浦はそれからしばらく海を眺めていたが、やがて、おもむろに口を開いた。
「──酒田を離れて以来、僕は刻磁石の針の欠片を集めてきました。片桐さんの力があったので、欠片は順調に集まりました。でも、ひとつだけ……ひとつだけ見つからなかったんですよ。欠片が収められた船箪笥のうち、どうしてもひとつだけ見つからないものがあった……」
「刻磁石の針は……刻磁石は復元できなかったということですか?」
「……はい。正直、途方に暮れました。どうしていいかわからず、片桐さんを訪ねました。当然、それでなにがどうなるというわけでもありません」
澪は北浦の顔から視線を外した。その沈痛な面持ちを見るのが辛かった。
それでも……澪は北浦の正面に回り込むと、その顔を見つめた。突然の海風が、彼女の背中を強く叩いた。
「教えてください、北浦さん。北前船の時代に、北浦さんになにが起きたんですか? どうして、現代に来ることになったんですか? お願いします、教えてください」
「──わかりました、風見さん。
僕の話を聞いてください。今から二百年前になにが起きたのか……それを話しておきたくなりました」
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