「──それで時穴に入ってどうなったんですか?」
「……この現代に落ちた、んですよ、ひとりで。気づいた時は記憶も失い、海に浮かんでいました。田辺さん……幸成さんに聞かれている通りです。時穴のことも、ナミのことも、そして北前船のことも、すべて思い出したのはずっと後のことでした」
函館港を眺めながら、北浦はそう答えた。苦笑いした彼の様子に、澪はそれ以上かける言葉が見つからなかった。
「でも、今ではみんな克明に覚えています。時穴に入った瞬間のことも。星辰丸は海に残し、僕とナミだけが光の穴に吸い込まれていきました」
「……ひょっとして、刻磁石も星辰丸に?」
「そのようです。土崎の船箪笥、刻磁石の片割れが見つかったあれの中に、当時の船主仲間の書きつけが残されていました。それによれば、僕たちが時穴に入ってしばらくしてから、心配して駆けつけた仲間たちが、星辰丸の甲板に落ちていた刻磁石を発見したと」
「あの……星辰丸は?」
「彼らが沈めてくれたようです」
「え?」
「僕があらかじめ頼んでおいたんです。僕たちの姿が見えなくなっていたら、それは試みが成功した証拠。田沼意次たちを欺くためにも、星辰丸を沈めてくれと。誠太郎とナミは刻磁石を抱えたまま、星辰丸とともに海の中へ消えた、と」
「そうですか。でも……」
──星辰丸はとても大切な船だったんじゃありませんか?
そう尋ねようとしたが、言葉を呑み込んだ。聞くまでもない。大切な星辰丸を引き換えにしてもいい、そう思えるほど、ナミへの愛は深かったということだ。
星辰丸のことを考えているうちに、澪はある可能性に思い当たった。円覚寺の髷額を別にすれば、これまでの取材で星辰丸に関連するもの、その船絵馬や記録といったものは目にした機会がなかった。なにしろ昔のものだ、すべてが後世に伝わるはずもない、そう思っていたのだが、北浦の今の話からすると、別の可能性も浮かんでくる。
時穴の秘密を守るため、北浦……否、誠太郎の仲間たちが積極的に、星辰丸の痕跡を消したのではないか。そうして、星辰丸は北前船の歴史からも消えた船になったのではないか……。
「書きつけによれば、刻磁石の針に当たる石盤は割れた状態で見つかったそうです。そこで仲間たちはそれぞれ船箪笥の隠し棚の中に収めることにした。田沼意次一派から刻磁石を守るためです。そして、誰の船箪笥に欠片が入っているか、その詳細も記されていました」
「……」
「話が逸れてしまいましたね。時穴に吸い込まれた僕とナミは、長い間、光の道……そうとしかいいようがないところを、滑るように進んでいきました。どれほどそうしていたでしょうね……突然、強い衝撃を感じました。思えば、あの瞬間、本当に時を超えたんじゃないかと思います。そして、その衝撃で、僕は〝落ちた〟。けれど、ナミはひとり、光の道を先へと行ってしまった」
「そんな……それでナミさんと別れてしまった……?」
北浦は静かにうなずいた。
「それじゃあ、あらためて北前船のことを学んでいたのも、ナミさんの手掛かりを探してのことだったんですか?」
「確かに、それもあります。ただ、手掛かりといっても、具体的になにがあるのか、それは見当もつきませんでした。ただ、星辰丸に載せていた船箪笥のことを思い出しました。仲間たちは賢い。なにかあった時には、あれを使うのではないかと思い至りました。ただ、博物館や資料館に収められているという話はありませんでした。個人が持っている状態ではお手上げです。いえ、それ以前にあれから二百年以上経っています。捨てられた、火事で燃えた、失われた可能性の方が高い。それでも僕は幸成さんにお願いして、その伝手でずっと探してもらっていました。それが土崎で見つかったんですが……実際、星辰丸の船箪笥には、刻磁石の基盤部分が隠されていました。なんというか……つまり、タイムカプセルみたいなものでした」
「それで、北浦さんは各地を回って船箪笥を調べて、そして針の石盤の欠片を手に入れていった。でも……」
「最後のひとつが見つかりませんでした」
それきり、北浦は黙り込むと、澪に背中を向けた。海から吹きつける強い風が、彼の頬を叩くように吹きつけている。
「──おまえに会いたい」
ふと呟いた澪の言葉に、北浦は驚いて振り向いた。
「北浦さんの言葉……気持ち、ですか。北前船を学ぶ旅の間、ずっと私の頭の中で聞こえていたんです」
「それは……」
「確実なことはわかりませんけど、私、土崎で刻磁石に触ってるんです。それから、そういうふうになって……心の中で、ふいに『──会いたい』なんて声が聞こえてくるから、私、そんなに情熱的に北浦さんに惹かれちゃったのかなって、実は相当焦って」
「あ、……はい。いえ、でもそれは」
「はい、でも、でした。それはやっぱり、北浦さんのナミさんへの想いだったんですね。それがはっきりして、私、なんだか少しほっとしました」
「……すいません。あの、それから……ここに立ったままもなんです、また歩きながらで」
照れ隠しだったのか、北浦は澪を促して港沿いを歩き出した。レストランが並んでいる前を通り、海上自衛隊函館基地隊を横目で見ながら、海に突き出した、緑の島と呼ばれる公園に向かった。
緑の島は駐車場と一面の芝生に、ベンチだけが置かれているだけだったが、その分、眺望は素晴らしかった。函館湾、ヨットハーバー、函館ドック、市街地、そして函館山まで、三百六十度の眺望が楽しめた。
「どうですか、今の函館の街は?」
澪のふとした問いかけに、北浦は笑顔になった。
「美しい街です。この前、幸成さんの用事で来た時は、この緑の島には来られなかったんです。後からこの場所のことを知って、いちどここからの景色を見てみたかったんですよ」
そう言うと、北浦はその場でゆっくり一回転しながら、函館の景色をその目に焼きつけようとしていた。その仕草が妙に子どもっぽくて、澪は想わず頬を緩めていた。
「函館は本当に美しい街です。僕は昔からこの街が好きでした」
北浦はそう繰り返した。
「でも……」
北浦の表情があまりに無邪気だったので、澪は少し意地悪をしたくなった。
「北浦さんが知っている函館とは、全然違うのに、ですか? 建物だけじゃなくて、町割りだって全然違うんですよね?」
「はい、まったくの別物です」
北浦は力強くうなずいた。
「風見さん、また少し勘違いしてますよ。僕が北前船に乗って訪れていた時だって、箱館は最新の、開発中の町だったんですよ。変わっていく街だったんです」
「……あっ」
「今の街の規模とは比較になりませんけど、来るたびに店も増え、人も増えていた。最新の商業地だったんです。今でいえば、どんどん姿を変えている渋谷の街みたいなものなんですよ」
「……はい」
「その発展を支えていた北前船も、当時は新しいインフラだったんです。遠隔地の人と人、物と物、そしてなにより情報と情報を繋いだ。これだって、それこそ、今でいえばインターネットみたいなものなんです」
「わかりました。わかっていたつもりでしたけど、懐かしいとか、伝統とか、そういうフィルターに邪魔されて、ついつい忘れてしまいます。ごめんなさい」
「はは、いいんですよ。だから、僕は新しいものが好きなんです、もともと。いや、江戸の頃の人間だって、新しいものは好きですよ。今と比べれば、あらゆる変化がゆっくりしてたわけですけど、人は好奇心の生き物でしょ? 古い物を懐かしむのと同時に、やはり、新しいものには心ときめくんです」
「……」
「また、余計な話をしてすいませんでした、風見さん。さっきの話の続きを聞かせてください。僕の声が聞こえて、それで本当に大丈夫だったんですか?」
「はい。だから今、こうして北浦さんとお話ができています。でも、初めて幻を見た時は正直、怖かったです。あのまま、北前船の時代に引き込まれそうになりました」
「それは……申し訳ない。なんと言ったらいいのか……しかし本当に平気なんですか、風見さんは?」
「はい。それでもやっぱり最初のうちは……。そのまま昔の世界に連れていかれるような気がして。北浦さんの話を聞いてみると、それもただの杞憂じゃなかった気もしますし」
「風見さん」
「いえ、でも、本当に大丈夫なんです。もう、というか、途中から平気になりました。あれは円覚寺だったかな。そう、私、あそこの寺宝館で、北浦さんの髷額を見つけたんですよ」
「……あそこに奉納したことがあります。それがまだ残っているのも知っています。というより、僕もこの前、見たばかりです。実に奇妙な気分でした」
「自分の気持ちなのによくわからなくて恥ずかしいんですけど、あちらの世界に連れていかれずに踏ん張れたのは、北浦さんのお陰なんです。私、北浦さんにもういちど会いたいと思っていたから」
「……」
「だから『会いたい』っていうの、私の気持ちでもあったのかもしれませんね。……ごめんなさい、私、変なこと言ってますね」
「……」
「あの、北浦さん……。もしも刻磁石を復元できたとしたら、時穴を潜ってまたナミさんを追いかけるつもりだったんですか?」
「そうです」
北浦はきっぱり答えた。
「でも」
「わかっています。再び時穴に入ったところで、ナミに会える保証などありません。そもそも過去へ戻るのか、未来へ進むのか、それすら定かではないわけですから」
「それでも……」
「迷うことなく、僕は時穴に入ります」
「……」
北浦は澪の前から離れると、函館山に背中を向けた。彼の視線の先には函館湾があった。それは津軽海峡に、ナミとともに時穴に入った海に繋がっている。
北浦の決意の厳しさが、悲しみの深さがどれほどのものか、それは澪の理解も想像を超えていた。二百年の時を超えても、愛する人とまた巡り合いたいと願う、それだけの情熱は、自分の中にはないものだった。
だから、今、北浦に声をかけられるとしたら……。
「北浦さん、酒田へ帰りましょう。
もうすぐ『酒田まつり』……北浦さんには『山王まつり』といった方が馴染みがありますか? 酒田も賑やかになる季節ですよ」
翌日、北浦は風見澪、そして田辺紀生とともに酒田へ戻った。
仕事を放り出す形で急にいなくなってしまった北浦だったが、田辺幸成の取りなしもあり、無事に市立資料館に復職することができた。
そのことに安心した澪だったが、彼女もまた日々の仕事に戻ることになった。取材を基に北前船関連のリポートを作ることに忙殺され、一日一日があっという間に過ぎていった。
四月は終わり、翌五月。
酒田に戻って以来、お互いの職場は目と鼻の先だというのに、澪は北浦と会えずにいた。
澪は北浦から北前船のことをまだまだ教えてもらうと約束していたが、それは果たせずにいた。観光振興課の仕事が日増しに忙しくなり、その暇がなかったのだ。
澪は北前船関連の仕事をセーブして、「酒田まつり」の仕事を手伝っていた。「酒田まつり」は酒田で年にいちどの、最大のイベントだ。市役所全体、特に観光振興課も忙殺されることになる。とても澪の我が儘が通るような状況ではなかった。
──「酒田まつり」。
庄内三大まつりのひとつに数えられる大きな祭で、上下日枝神社の例大祭「山王まつり」として慶長十四年(一六〇九年)に始まってから、いちども休むことなく続いている。そして酒田大火復興記念となった昭和五十四年(一九七九年)からは、日枝神社の氏子の祭りから、酒田全市民の祭りとすべく、「酒田まつり」とその名を改めた。
ちなみに駅前や市役所に飾られている大獅子が祭りに登場するようになったのも、この年からである。
街の発展、災害防止の願いを込め、民間信仰の大獅子、これが二対計四体製作され、山車行列に加わった。今ではその獅子の口の中に入れ、子どもを噛んでもらうという風習も根づいた。これは子どもの無病息災を願うものだ。
祭りは毎年五月十九日から二十一日までの三日間と定められており、初日の十九日は夜に開催される宵祭り、二日目の二十日が本祭りと呼ばれ、多くの大獅子や山車が繰り出す。そして最終日の二十一日には裏祭りが催される。三日間通して、市内各地で様々なイベントも開かれるが、なんといっても壮観なのが屋台、出店だ。日和山からマーリン5清水屋脇を通り、一番町の大通りまで、なんと三百五十もの出店が並ぶ。これだけの数が揃うというのは、全国の祭りでも滅多に例がない。
──なんであれ、五月十九日から二十一日までの三日間、酒田は別世界のように賑やかになる。
そんな生まれ故郷の姿を見るたびに、澪はよく思ったものだ。
──まるで魔法みたい。
そんな魔法の日々に向けて、酒田の街はゆっくりと静かに……だが、確実にその熱を蓄えていた。
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