五月二十日、酒田まつり、本祭りの日。
その日の正午から、祭りの本格的な始まりを告げる祭典「式台の儀」がマリーン5清水屋前で始まった。奉行を務める酒田市長や、上下の日枝神社の神宿代表が出席し、式典が行われ、それが終わると、酒田まつりの最大の出し物である、山車行列が始まる。こちらも上日枝、下日枝神社の神宿を務める者たちを先頭に、神輿や大きな獅子頭や多くの山車が連なっていく。最近は行列もバラエティ豊かになり、ご当地のゆるキャラや、子どもたちの一輪車パフォーマンスなども後に続く。
沿道いっぱいの見物客たちに見守られながら、山車の行列は中町の国道112号、市役所前の本町通り、大通り、寺町通りを抜けていく。
本祭りの日は比較的手が空いていると言っていた澪だが、当日、風邪で急に倒れてしまった他の部署のヘルプに入ることになり、自由になる時間もなくなってしまった。
そわそわしながら午後の時間を過ごした澪だったが、彼女のところに北浦から電話がかかってきたのは、山車行列が終わる四時半頃だった。
『すいませんでした、風見さん。今日は思いがけず忙しくなってしまって、祭りにはお誘いできませんでした』
「いえ、それは……。実は私も少し忙しくなってしまって、出られなかったと思うんです。あの、実は……」
『だったら』
「はい?」
『今夜はどうですか? 露店とかありますよね? それにまた山居倉庫の方にも連れていってもらえませんか? 山車の行列は終わっても、まだ祭り気分は味わえますよね?』
「はい、はい、そうです。酒田まつりは夜でも賑やかですから、特になにもなくても楽しいです。実は私の方から、そうお誘いしようと思っていたところで……ありがとうございます」
午後七時にマリーン5清水屋の前で待ち合わせと決めて、電話を切った。
時間の少し前に市役所を出た澪だったが、普段と違い、本町通りからすでに人が溢れていて、清水屋の前に着くのには少々時間がかかった。
人混みの中、所在なさげに立っている北浦がいた。いつも見慣れた格好、白いシャツに大きめの黒のリュックを背負っていた。澪は急いで駆け寄った。
「ごめんなさい、お待たせして。お祭りの日の人混み、なめてました」
「そんなに待ってないですから。それより、あっちにつき合ってもらってもいいですか? なんとなくひとりでは物怖じしてしまって」
北浦が指さしたのは、清水屋の建物の脇から日和山に続く真っ直ぐな道、そこにずっと連なっている出店、露店だった。
「いいですけど……。北浦さん、昼間忙しかったって、お仕事だったんですか?」
「いえ、違います。酒田の街を散歩していました。実は山車行列もひとりで見物していたんです。けれど、あの出店の並びには足を運べなくて」
「……ひとりで見物されてたんですか?」
「はい、約束を守れずにすいません。どうしても、ひとりで回りたくなって」
北浦は深く頭を下げた。
「それはいいんです。どのみち、こちらの都合でおつき合いは難しかったと思いますし」
「本当にすいません。それで……ダメですか?」
「とんでもない。行きましょう」
澪と北浦は人の流れに乗って、出店が並ぶ通りを歩いた。様々な露店が並んでいて、さすがに北浦にはどれも物珍しいのか、いちいち足を止め、興味深そうに覗いていた。
「どれも食べたいんですが……見つけたもの、ぜんぶ食べるわけにはいかないですよね、うーん」
困っている北浦を見て、澪は微笑んだ。
「食べたかったら、なんでも食べちゃえばいいじゃないですか。今日はお祭りの夜なんですから。私も責任を持ってつき合いますから」
「そうですか、だったら……」
北浦はまず、前から食べたかったというケバブを手を出した。それから目についた米沢牛の串焼き、タイラーメンを食べた。北浦はあまり馴染みのないタイ料理の味をいたく気に入った様子だった。デザート代わりに、日和山に続く坂の麓でトルコアイスも買った。
「どうしましょう、北浦さん。日和山へ行きますか? 夜でもけっこう賑やかだと思うんですけど。それとも山居倉庫行きます?」
「山居倉庫に行きましょう。少し歩きますけど、いいですか?」
「ええ、私なら大丈夫です。あっちも普段より賑やかだと思います、行きましょう」
まだ衰えない人混みの中を縫って、ふたりは港の方へ向かい、みなとオアシス酒田のところに出た。昨日、一緒に立て山鉾を見物したところだ。
そこから右手に港を眺めながら、山居倉庫の方を目指す。出店が出ているあたりからは遠いが、ここまで足を伸ばしている者も多く、普段では考えられない賑やかさだった。
やがて、暗がりの中に白く輝く一角が近づいてきた。ライトアップされた山居倉庫だ。
「この前、風見さんに連れてきてもらって以来ですけど、夜のここは本当にきれいですね」
と、北浦がしみじみと零した。
「前の時のこと、覚えてますか、北浦さん」
澪が真面目な顔で尋ねると、北浦は笑顔になった。
「当然です。あの日、風見さんは酒田の街の〝見方〟に気づいた。僕は嬉しかった、忘れられないですよ。忘れないです」
「……」
澪は山居倉庫に背を向け、新井田川を見た。夜の川面は暗く静かで、そこだけがぽっかり、祭りの賑わいからとり残されているようだ。
「──そろそろ、北浦さんともお別れですか?」
川に向かって、独り言のように呟く。
「……風見さんがその気になったのなら」
すぐに返ってきた北浦の声に、澪は、はっとして振り向いた。
「やっぱり、北浦さん、私がなにをしようとしていたか、気づいていたんですか?」
「はい」
北浦は深くうなずいた。
「でも、それは風見さんも同じでしょ? 僕が気づいていることに、気づいていた」
「……はい」
澪は絞るように声を出した。
「少し待っていてくださいね、北浦さん」
そう言って、澪はスマホをとり出し、あるところに電話をかけた。
十五分ばかりして、山居倉庫の駐車場に一台の車が入ってきた。その運転席から降りてきたのは田辺紀生、そして助手席からは彼の父の幸成が顔を見せた。
突然のふたりの来訪に北浦は一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに納得した顔になった。
「ごめんなさい、北浦さん。いきなりふたりを呼んだりして。でも、見張ってくれる人がいないと、私、正しいことができない気がしたんです」
澪が田辺親子の顔を見たが、彼らは車の傍から離れようとしなかった。そこから彼女のことを見守るつもりらしい。
「……」
澪は深く息を吸った。
肩から提げた小さな鞄を開いて、石の欠片をとり出す。
そして、北浦に差し出した。
北浦はそれを一瞥すると、背中からリュックを降ろし、中から二枚の石の円盤を引っ張り出した。一枚は土崎の船箪笥から見つかったもの、そしてもう一枚はそれと似た石盤だったが、一部が欠けた不完全な形をしていた。
──そちらは、北浦がずっと求めていた、刻磁石の〝針〟だと思われた。
「それをもらってもいいんですか?」
澪がうなずいて答えると、北浦はようやく欠片を手にとった。そのまま、それを欠けていた石盤にはめる。ぴたりと合った。まるで割れたことなどなかったように、たちまち継ぎ目すら見えなくなった。
北浦は二枚の石盤を上下に組み合わせた。
すると、彼の掌にあったそれは、まるで生きているように細かく震え始めた。上に乗った〝針〟の部分がくるくる回る。
「刻磁石、元に戻ったんですか?」
「はい。元通りです。割れていたのに不思議なものです」
澪にそう答えると、二枚の石盤を分離させた。刻磁石の動きはそれでぴたりと止まった。
「教えてください、風見さん。この最後の一枚はどうやって手に入れたんですか? やはり……」
「はい」と、澪はうなずいた。
「函館の博物館で、片桐さんから預かりました。あの裏手で、北浦さんと再会した、その直前のことです」
「……」
北浦は表情を変えないまま、澪の話を聞いていた。
「片桐さんのこと、怒らないでくださいね。片桐さん、北浦さんから石盤の欠片が隠された船箪笥の捜索を頼まれた時に、まず、すぐに見つけたものがあったんです」
気づけば、田辺親子も澪の近くに来て、その話に耳を傾けていた。
「その船箪笥は高田屋嘉兵衛さんの持ち物で、函館のとある方の個人所有のものだったんです」
田辺紀生が難しい顔でうなずいた。彼もまた函館の博物館の一室で、澪とともに片桐の話を聞いていたのだ。
「片桐さんはその方にすぐに連絡をとったんですけど、不在が続いていて、ようやく家にお邪魔できたのが、北浦さんが函館を訪ねた直前のことらしくて。その時になって、ようやく船箪笥を調べられたそうです。隠し抽斗を見つけるのにかなり手こずったそうですけど、さすがは北前船の専門家です。なんとか仕組みを理解して、〝針〟の欠片を発見したと」
「……」
北浦はなにも言わなかった。その沈黙に急かされた気になって、澪は話を続けた。
「片桐さんは北浦さんのことを心配していたんです。刻磁石を復元して、北浦さんが時穴に入って……それで無事でいられる保証はどこにもないから。過去か未来か、どこかに着ければそれでいいですけど、次はどうなるかわからないですよね?」
「そうですね。その通りだと思います。僕がどんな目に遭おうと、それは僕の責任です。でも、僕だけの問題ではないこともわかっています。周囲の人を悲しませてしまうことも。けれど……」
「それでも、北浦さんは刻磁石が欲しかったんですよね。ナミさんに会いたいから」
澪は微笑んだ。どうしてこんな状況で笑えるのか、自分でも不思議だったが、なぜか胸には温かなものを感じていた。
「片桐さんは私にこう言いました。『初対面の風見さんにこんなことを頼むもアレ、ですが』……アレ、ですよ、アレ。アレって言い方がそもそもひどくないですか?」
「はぁ……」
「あっ、すいません。つい余計な話を。冗談ですから。片桐さんの話でした。つまり、片桐さんが私にさっきの石盤の欠片を託したんです。それを北浦さんに渡すのも、黙っているのも、みんな私の自由にしていいって」
「……迷惑をかけましたね。それは……本当にご迷惑をおかけしました」
北浦が深々と頭を下げたので、澪は慌てた。
「そんなこと言わないでください。片桐さんの本当の気持ち、私にもわからないですよ。初対面の私のことを、どうしてあそこまで信用してくれたのは、それもわからないし」
「──それなら、わかるけどね」
紀生が申し訳なさそうな顔で口を挟んできた。
「僕も一緒にいたからわかるよ。北浦さん、あのね、風見は片桐さん相手に、北前船のことを熱弁したんですよ。短い取材だったけど、その中で彼女が学んだことを……まぁ演説、したわけですよ」
「演説は、してないです」
澪に咎められても、紀生は「あれ? そうだっけ?」と、とぼけて、
「とにかく。思いの丈を語ったんです。それで、片桐さんは風見のことを信用する気になった。横で見ていた僕にはそう見えましたよ。北前船の時代から来た北浦さんと、今を繋げるとしたら、彼女しかないって」
紀生は腕を組んで考え込み、
「──今回の取材で日本海側の土地をたくさん回った。それでわかった。自分は酒田の生まれだけど、日本海側の街なんて、どこも同じだと思っていた。だけど、昔は違った。北前船で栄えていた。その名残りはどの街にもある。程度の差はあるけれど。港町は風の町、だから火災の被害で建物を焼かれた。それでも、町の形は昔を覚えているから、町の記憶が留められている。
──過去があって今があるから未来もある。時間は流れる。どの街もそうだし、酒田もそうだ。どんな未来が待っているかわからない。そんな話を北浦さんとしてみたかった。
……みたいな、ね」
「私、そんなこと言いましたか? いえ、ていうか、田辺さん、どうしてそんなに詳しく覚えているんですか?」
語気を強めて澪が迫ると、
「暗記に強いからね。僕の数少ない長所のひとつだから」
紀生が涼しい顔で答えた。
「もう、それでも余計ですよ、田辺さん。人から言われたら恥ずかしいじゃないですか」
「いえ」
北浦は真面目な、だが、どこか柔らかな表情で言った。
「田辺さんに感謝です。よく覚えていてくれました。でも、できれば風見さん本人から聞きたい言葉でしたけど。いや……風見さんには大切な話をたくさん聞きましたから、もう贅沢は言いませんけど」
「あの、北浦さん」澪は頬を赤らめた。「話を戻しますよ。というわけで、私は片桐さんから託されたんです。正直、片桐さん、ずるいって思いました。でも、今はあの時の片桐さんの気持ち、私、よくわかります。片桐さんは北浦さんのこと好きなんですよ。だから願いを叶えてあげたくて船箪笥のことを懸命に調べた。でも同時に時穴には入って欲しくなくて……私もそうでした。
酒田に戻ってきてからも、ずっと考え続けて、ずっと迷い続けてきたんです。北浦さんの前に顔を出せなかったのも、そのせいです。でも、やっぱり決める権利は北浦さんにあると思いました。だから、それを渡すことに決めたんです。
──後はもう、北浦さんが決めてください。私は……私たちは、それを見届けますから」
澪の言葉に北浦はしばらく考え込み、
「昨日の宵祭りの時……」
と、おもむろにに口を開いた。
「定期船のとびしまを眺めていたって話から、船が好きだって話になりましたよね。どうして船が好きなのか……。
それは子どもの頃、高田屋嘉兵衛さんの船を見た時からです。どうしてなんだろうと、今でも自問自答することがあります。子ども時代の体験が強烈だったから、単純にかっこいいと思ったから、そういうこともあります。でも、今、思うのは」
「……」
澪は息を止めるようにして、北浦の言葉に耳を傾けた。
「船はみんな、未来へ進んでいくものだからだと思います」
「未来へ?」
予想外の言葉に澪は驚いた。
「そうです。船は恐ろしいものでしょう? どんな船でも、航海は絶対に安心ってことはありません。けれど、船乗りはそれでも船出する。船は皆、未来へ進んでいくものだからです……。
──だから僕も未来へ行きたい」
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